ヘーゲルの「前期」とは、1807年に『精神現象学』が刊行されるまでの時期を指す。精神現象学はヘーゲルのシェリングとの決別の辞であった。
前期からさらに初期を分けることもありだ。その境界はフランクフルト行きかイエナ行きか、そのへんが難しい。しかしそれはいずれにせよシェリングとの出会いと別れを以って区切られることになるだろう。
そんな経過を追求すべく足取りを追ってみる。


1770年8月27日 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)、シュツットガルトに生誕。生地シュトゥットガルトは当時ヴェルテンベルク公国の首都であり、父ヘーゲルは公国の官僚であった。

1778年 小学校2年でシェイクスピア全集を読破。ヘーゲルの才能を愛した学校の教師が、独語訳全集をプレセントしたという。ゲーテやシラーは好まなかったとされる。

1781年 カントの『純粋理性批判』が発表される。

1785年 歴史や法律、道徳などを広く学び、ノートするようになる。

ヘーゲルの心を捉えたのはギリシア悲劇や歴史書であったという。世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題とする学問路線を形成する基盤となった。

1786年(16歳) 王立カール学院に入学。ギリシア・ローマ古典文化、歴史を学ぶ。


「学生時代」

1788年

9月 カール学院を卒業。卒業にあたり「トルコ人における芸術と学問の萎縮について」と題して講演。

10月 チュービンゲン大学哲学部に入学。この大学はドイツ南西部におけるルター派正統主義の代表的学府であった。哲学部ではキリスト教史に関する研究の傍ら、ギリシア文化に加えてカント哲学を学ぶ。またフランス啓蒙主義の影響を受ける。

またシュティフトの神学院で寮生活をしながら、同級生ヘルダーリンと親密な交友関係を築く。

ヘルダーリンは初期のグループを主導していた。「ヘン・カイ・パン」を唱え、「美的プラトン主義」の弁証法を主張した。ヘンカイパンは「一にして全」という意味で、万能の神は自分の内にすべての要素を備えているという神秘的汎神論。

1788年 カントが『実践理性批判』を公刊、理性に基づく道徳の体系を明示。意志の自由と人格の尊厳を主軸とした道徳理論を提示する。

1789年

7月 フランス革命が勃発。

8月 フランス革命派が人権宣言を発する。

9月 卒業生のニートハンマーが大学を訪れ、学生らと懇談。フランス革命の情報を伝える。ヘーゲルは熱烈に革命を支持しルソーに心酔した。(ニートハンマーはかなり有名な教育哲学者で、ヒューマニズムという言葉を最初に使い始めた人。最後まで残ったヘーゲルの友人)

11月 チュービンゲン公が大学を視察。学生への観察を強化するよう指示する。



1790年(20歳)

9月 哲学部教師にカント主義者のディーツが赴任。この年カントの『判断力批判』が公刊される。美と生物の合目的性を主張。
ヘルダーリンはカントに傾倒。ヘーゲルはカント哲学とキリスト教の両立を試みる。ただヘーゲルは、悟性(神学的宗教)は生きた宗教(主観的宗教)をとらえることができないという実感を持ち続けた。

10月 15才のシェリングが哲学部に入学。2級下でかつ5歳下の仲間ということになる。卒業も2年遅く95年9月まで在学。

11月 ヘーゲル、哲学部を修了し神学部にうつる。

冬 ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングを含む10人が、神学院2階の大部屋で共同生活を送るようになる。部屋は一種の秘密結社となり、フランス革命についての禁書を読みあった(ルカーチ)

1791年

11月 オイゲン公が神学院を視察。学内規律について立腹したという。

1792年

夏 進学院内にも政治クラブが結成される。フランスの新聞を教材に討論を重ねる。ヘーゲルは最も熱心な革命支持者であった。このころ草稿群「民族宗教とキリスト教」の執筆を開始。ルソーの影響を強く受け、宗教は公的で社会的な現象とみなされ、「民族精神」とのかかわりから考察される。

ヘーゲルはキリスト教を「客体的私的宗教」と呼び批判。客体的とは押し付けられたという意味、私的とは俗物的ということ。

1793年

6月 ヘーゲルら、チュービンゲン郊外の牧草地に「自由の木」を植樹。シェリングは「ラ・マルセイエーズ」を独語訳。

夏 カントの『たんなる理性の限界内の宗教』が出版される。これまでルソー派だったヘーゲルは、これを読み抜粋を作るなど、強い影響を受ける。

「ベルン時代」

1793年(23歳)

9月 チュービンゲン神学校を卒業。牧師補の資格を取得したが、キリスト教に対する批判を強め、牧師にはならなかった。

10月 スイスの首都ベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。草稿群「民族宗教とキリスト教」(第17~26篇)の執筆を継続(94年まで)。

1794年

6月 ジャコバン党のロベスピエール、「最高存在の祭典」を開催。ルソー主義に基づく国家宗教の樹立浸透を図る。

7月 テルミドールの反動。ヘーゲルは恐怖政治期のフランスに批判的な立場を強める。

94年後半 「民族宗教とキリスト教」の後半の執筆が始まる。カントの実践理性の視点からキリスト教批判が展開される。「民族宗教」の試みは事実上放棄される。

94年末 ヘルダーリンやシェリングと文通を通じて交流を再開する。

94年9月 シェリング、神学校を卒業。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。

12月 ヘーゲルからシェリングあての手紙。「ロベスピエールの奴らの破廉恥極まる所業」が裁判で暴かれたと伝える。

1795年

1月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「神の国よ、来たれ!われわれは、何もせずに手をこまねいていてはなりません。・・・ 理性と自由はいまだにわれわれの合言葉だし、われわれの一致点は見えざる教会だからです」

2月 シェリング、「哲学一般の形式の可能性」を執筆。ヘーゲルにも送付する。
シェリングのヘーゲルへの手紙「ともかく人格神という正統派の神概念は我々には存在しない。ぼくはこの間、スピノザ主義者になった」とし、キリストとの関わりを断ち切れないヘーゲルを強烈に批判。

4月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「カントの体系とその最高の完成から、ドイツに革命が起こることを、僕は期待する」

5月 「イエスの生涯」の執筆に取りかかる。シェリングの批判を受け、“神性とは実践理性(カント)を行使すること”という結論に到達する。

7月 「イエスの生涯」を完成。引き続き「キリスト教の既成性」の執筆にとりかかる。

7月末 シェリング、『自我について』、『哲学書簡』などを発表し、ヘーゲルにも送付する。

7月末 ヘルダーリンが母校を訪れ、シェリングと面談。シェリングからフィヒテを勧められ、研究に着手。

8月末 ヘーゲル、シェリングあての手紙で、自らの孤独な境遇を訴える。

11月 「キリスト教の既成性」がほぼ完成。カントの「実践理性の要請論」の立場は理性の無力の告白に他ならないとし、道徳論の「定言命法」が持つ「既成性」を見るようになる。

既成性はPositivitaet の訳。実定性とも訳すが余計わからない。前向きという意味ではなく「既成政党」の既成。“形骸化”に近いネガティブな言葉。

11月 シェリング、チュービンゲン大学を卒業。「キリスト教の実定性」の執筆に取りかかる。(ヘーゲルの「キリスト教の既成性」との内容的関連は不明)

1796年

1月 ヘルダーリン、大学時代の盟友だったシンクレアの紹介で、フランクフルトで家庭教師の職を得る。

4月 シェリング、家庭教師の職を得、ライプツィヒに転居。ライプツィヒ大学で、3年にわたり自然学の講義を聴講する。

夏 「キリスト教の既成性」を脱稿。

宗教は、本来自由から生まれるべき道徳法則を、我々の外にある存在から与えられたものとして提示している。このような既成的宗教は人間の道徳的自立性の廃棄を意味する。

秋 ベルンの家庭教師の職を辞し、生地シュツットガルトに戻る。軽度のうつ状態に陥る。


「フランクフルト時代」(政治の時代)

1797年

1月 ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。馬市商人ゴーゲル家で家庭教師の職に就く。

4月 ヘルダーリン、「ヒュペーリンオン」第一部を発表。

4月 シェリングが『自然哲学へのイデーン』を発表。ライプツィヒ大学での自然科学の知識を元にして、「有機体」概念を中核に、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。

ヘーゲルはこれを、「シェリングの客観的観念論は、カント・フィヒテの自由の観念論から脱皮し、宇宙を神的力の自然的活動として把握したもの」と評価する。

冬 イェーナ大学哲学部助教授だったニートハンマーがシェリングの招聘を計画。

1998年

4月『カル親書注解』を匿名で刊行。ベルン時代に書かれたもの。カルはベルン出身の民権派弁護士でベルン政府の抑圧を受けていた。

夏 ヘーゲル、カントの「人倫の形而上学」を研究。これに基づいて「キリスト教の精神とその運命」の執筆を開始。「カントと離婚してキリスト教と婚姻」したとされる。(執筆時期には諸説あり)

カントは「分離するという悟性の本性、決して満たされることのない理性の果てしのない努力、思惟の分裂、世界観の超越性」などの化身と、三行半を突きつけられるに至る。義務道徳は、むしろ道徳的自律を妨げる宗教の律法に比せられるようになる。

10月 シェリング、イェーナ大学哲学部の助教授に就任する。このときの教授はフィヒテだったが、無神論論争に巻き込まれていた。

シェリングは、絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があるとし、フィヒテの顔を立てつつ自説を展開。

1799年

1月 父の死により遺産を相続。

2月 スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。(5月まで)

イギリス国民経済学の研究から、1.労働が共同生活を歴史的に形成する。2.労働手段(道具や機械)が人間と自然を媒介する。3.言語が人間と人間を媒介する。4.分業と機械化は全一な人間性を分裂させる。などの規定が抽出される。

11月 ブリュメールのクーデター。ナポレオンが権力を握る。

7月 フィヒテは論争に破れイエナ大学を去る。シェリングが教授となる。

1800年(30歳)

9月 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的観念論の体系』を発表。「同一哲学」を提唱する。

「産出的な自然」の概念を基礎に、精神と自然との絶対的な同一性を原理とする。超越的な絶対者の自己展開を叙述する学として定式化。

9月 ヘーゲル、この頃「1800年の体系断片」を記述。

11月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。仕事と研究のための機会を依頼。同時に自己の思索の体系化を目指す意気込みを語る。二人は、ヘルダーリンのロマン主義より強固な論理を求めることで一致したと言われる


「イエナ時代」

1801年

1月 ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。共同研究をおこないカントとフィヒテを批判。「哲学的」協業を開始したといわれる。

5月 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。自然と精神との連続性を強調して、自然は眠れる精神であり、精神は目覚めた自然であるとする。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。

10月 ヘーゲル、「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」を発表。フィヒテのいう絶対的自由は抽象的・無規定的だとし、人格同士の共同は自由の制限ではなく自由の拡張であると主張。

「存在は非存在の中へ生成される。有限なものは無限なものの中へ生成される。哲学の課題は、それらの過程を生として定立するところにある」(このくだりは法の哲学の冒頭でも使われている)

1802年

1月 シェリングとヘーゲル、共同で「哲学批判雑誌」第一巻第一分冊を刊行。主なヘーゲル論文に「哲学的批判一般の本質」、「常識は哲学を如何に解するか」、「懐疑論の哲学に対する関係」、など。

3月 第一巻第二分冊が刊行される。

7月 第二巻第一分冊が刊行される。ヘーゲルの「信と知」が掲載される。

「信と知」において、カント,ヤコービ,フイヒテの三者は「反省哲学」の下に一括され、二元論的世界観を批判される。
二人は反省哲学を、「有限なものを絶対化し、その結果、無限なものとの対立を絶対化し、その結果、無限なものを認識不可能として彼岸に置きざりにする」と非難。

1803年

5月 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去りヴュルツブルグへと移る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。翌年、ニートハンマーもヴュルツブルグへと移る。

冬 「思弁哲学体系」の草稿が完成する。

直観と概念の相互包摂を通して、理念(イデー)が展開される。ヘーゲル弁証法の第一論理。絶対者の運動は、実体的統一から対立・差別を通じて再統一に至る。ヘーゲル弁証法の第二論理。

1804年

冬 「思弁哲学(論理学・形而上学)・自然哲学・精神哲学」の草稿が完成。

1805年

2月 ヘーゲル、ゲーテ(イェナ大学のパトロン)への陳情が奏功し、私講師から助教授(員外教授)に任じられる。シェリングとの立場の違いが次第に明らかになる。

5月 シェリング、ミュンヘンに移住し学士院会員となる。

12月 アウステルリッツの戦い。ナポレオンが神聖ローマ帝国軍を撃破。

1806年

2月 『精神現象学』が出版社に回る。歴史意識を概念的に把握することを主題とする。シェリングを厳しく批判する内容となる。(この本が世に出る過程には幅があるようだ。後ほど調べる)

正式題名は“「学の体系」第一部に基づき、精神現象学を序文とする思弁哲学(論理学および形而上学)、自然哲学、および精神哲学、哲学史”という超長ったらしいもの。ヘーゲルは自著紹介で、これは第一巻であり「精神現象学」と呼ばれるもの。このあと第二巻「思弁的哲学としての論理学と、残りの哲学の2部門自然の学と精神の学徒の体系を含む」と告知している。

7月 西南ドイツ諸国がライン連邦を結成、神聖ローマ帝国からの脱退を宣言。間もなく皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国は消滅。

9月 ヘーゲル、イェーナ大学での実質的な最終講義。

10月13日 イエナ会戦。プロイセン王国がナポレオンに敗北。イエナは占領されイエナ大学は閉鎖される。ヘーゲルは行進中のナポレオンを目撃。「馬上の世界精神」と評する。

10月 ヘーゲルは職を失う。(形式的には1808年まで所属)

11月 バンベルクに避難して「精神現象学」の最終校正を行う。

1807年

1月 ヘーゲル、シェリングに手紙を送りバイエルンでの就職斡旋をもとめる。

3月 ヘーゲル、日刊バンベルク新聞記者となり赴任。

4月 精神現象学(正式には「学の体系・第一部:精神の現象学」)が上梓される。「序言」でシェリングを闇討ち批判する一節。

シェリングの「同一性の哲学」は、絶対者を直観によって把握し、これを始源に置く。ヘーゲルはこれを以って「全ての牛が黒くなる闇夜に、ピストルから発射されでもしたかのように、直接的に、いきなり絶対知から始める」と嘲弄。動因としての主観を強調する。

11月 シェリングより抗議の書簡。返答をもとめるがヘーゲルは無視。このあとヘーゲルとシェリングの文通は終了。

ヘーゲルが批判したのはおそらくシェリングと言うよりスピノザだったのだろう。ただしヘーゲルのスピノザ理解度が問われるという側面もある。

「ニュルンベルク時代」

1808年(38歳)

5月 バイエルンの教育監となったニートハンマーが、ニュルンベルクのギムナジウムの校長の職を斡旋。

11月 バンベルク新聞編集者を辞任。ニュルンヘルクのメランヒトン高等学校の教授兼校長として赴任。上級クラスで哲学的予備学と数学、中級クラスで論理学を教える。



参考資料



上妻 精 他 「ヘーゲル 法の哲学」(有斐閣新書) 

武田趙二郎 「若きヘーゲルの地平」〈行路社)

現代思想「総特集=ヘーゲル」青土社 1978

シェリングについては下記の記事を参照のこと

2018年03月04日  シェリング 年譜
2018年12月21日  「弁証法的実在論者」としてのシェリング