なぜヘーゲルか

このところヘーゲル絡みの話題が続いているので、読者の方々は「なぜいまさらヘーゲルか」と訝しんでおられるかもしれない。

実は、事の発端はケインズにあるのであって、根井さんの「ケインズ革命の群像」(中公新書)という本が面白くて読んでいたら、厚生経済学」に突き当たった。

経緯は省略するが、ケインズもビグーもマーシャルの新古典派を引き継いでいるが、かなり毛色が違う。

厚生経済学は一方で進歩的な色合いを込めつつも、実際の理論は数字ばかりでさっぱりわからず。言うこととやることがこれだけ違う学問も珍しい、不思議な学問だ。

結局、ミーゼスやハイエクも含めて、需給曲線と市場原理主義で価値論を無視する新古典派は、一括してポイ捨てするほかないと思うようになった。

スミスが「諸国民の富」を書いたとき、経済の研究対象は「富」と定められたはずだ。富を考察の対象から外した学問が経済学であるはずがない。それはたかだか「市場経済学」だ。

ということで、スミス→ミル→リカード→マルサス→セー→マルクスとつながる古典派をもう一度押し入れから掘り出して、ホコリを払って再吟味するべきではないかと思う。シュンペーターは準会員だ。

それで考えているうちに、「いきなり→マルクスだろうか?」と考えるようになった。

つまりそこにはカッコ付きかもしれないが、ヘーゲルが入るのではないかと思ったのである。

なぜそう思ったのかには理由がある。

以前「療養権の考察」を書いたときに、ヘーゲルの「仕事」概念が知りたくて「法の哲学」を読んだことがある。

なかなか目からウロコが多くて、すごく感心した。

それで、あとから「経済学批判要綱」に行くと、ヘーゲルの仕事概念を下敷きにした労働力能論や、欲望の拡大再生産論があったりして、あぁかなり「法の哲学」を読み込んだなぁと感じたことがある。

それと、我が身に合わせて言うのもなんだが、マルクスはどれほどヘーゲルを読み込んだのかという素朴な疑問もある。ドイツ語の原文でも難しいのは同じだろう。大抵は耳学問ですませたのではないかと勘ぐってしまう。

ただし「法哲学」だけはノートもとってガッチリと読み込んだ。「批判」も書ききっている。だからマルクスにとってヘーゲルのイメージは「法哲学」だったのではないか。

だから、マルクスがヘーゲルから経済学についてヒントを得たとしたら、それは法の哲学だったろうと思う。

ということで、マルクスとヘーゲルの関係については一つの研究対象となるのだが、私の考えているのはそこにはない。

もちろんヘーゲルは古典派経済学をそれほど本腰を入れて研究したわけではないだろう。また法の哲学はあくまで法の哲学であって経済の哲学ではない。

しかしそれにもかかわらず、ヘーゲルには独特のひらめきがあるし、古典派経済学に重要な寄与を成し遂げているのではないかと想像する。

もっと言ってしまえば、ヘーゲルはドイツ古典哲学とイギリス古典経済学を結合させた最初に人物として評価されるべきである。このような文脈で言えば、マルクスは経済哲学の分野の二代目に過ぎない。
ヘーゲルは初代らしく闊達に資本主義(市民社会)を語る。彼は資本主義社会の根っこをなす商品社会・市民社会のエッセンスを、ある意味マルクスよりより全面的に網羅しているのではないか。

また当初よりマルクスが特別力点をおいている所有の問題ではヘーゲル法哲学との取っ組み合いの中で独自の視点を形成していったと思われるので、この点についても両者の視点の違いと共通性を考察する必要があるだろうと思う。

いずれにしても、ヘーゲルを古典派経済学の山並みの一つのピーク、とりわけ経済哲学の一つの頂点として改めて見直す必要があるのではないか、というのが私の意見である。