角田修一 書評
「見田石介著作集 第1巻 ヘーゲル論理学と社会科学」(1977年)

見田石介は
「ヘーゲル弁証法の神秘的な観念論の外皮というものは、それを一皮むけばそこに正しい弁証法が現れてくると言った表面的なものではない」
と言った。
そんなにかんたんなものではないからこそ、彼の哲学は難解なのだ。
見田石介は
「マルクスの方法を理解するのに、ヘーゲルの言葉や流儀を当てはめようというのは間違いであり、『資本論』にそれらを適用しようと試みるなどというのはまったく非科学的な態度である」
と述べている。

へーゲルの観念論たる本質はどこにあるのか。どこを最も警戒しなげればならないのか。
見田石介は
「要するにヘーゲルは、人間の思考過程を現実の過程と同一視した。へーゲルの思考概念は、現実の世界を生みだす真の実在になってしまっている」
にも拘らず、ヘーゲルにはまた、客観的内容を一定反映した「唯物論的な要素」がある。
そこには人間の認識の限界を説く経験論や、認識を主観の世界に閉じ込めるカント主義とは異なるヘーゲルの科学主義がある。
ヘーゲルの難解さの原因は、このような二面的立場の混在にある。

へ-ゲル弁証法の合理的な核心
見田石介は
「否定という形式のもとでの発展」が、へ-ゲル弁証法の合理的な核心だとする。
それは第一に事物の変化が、それぞれの事物の自己運動だということである。それは現状否定という形で運動する
第二には、事物の変化が発展だということである。それは単純な否定ではない。古いものは新しいもののモーメントとなり、新しいものはより豊かな一つの全体となる。
第三は、諾事物の変化はたがいに連関(因縁)を持っているということである。それは必然的でありユニバーサルである。

へ-ゲル弁証法の革新性

へーゲルの論理学は従来の論理学(形式論理学)に対してどこが新しいのか。

見田石介は
第一に、へーゲルは「弁証法」を持ち込んだこと。弁証法とは上記の3つを柱とするもの。
第二に、感覚的な直接的な認識から本質へと向かう「探求の過程」を示し、既存の論理的な諸カテゴリーを位置付けたこと。
第三に、最も基礎的な概念から出発して、直接的な認識にすすむ「叙述の過程」を示したこと。
第四に、概念や推理の形式のみを取りあっかう形式論理学でなく、「思考」が論理をとらえる過程を対象とした。(ヘーゲルの「思考」は自然過程の裏返しであることに注意)
第五に、「普遍」についての新しい考え方を提起したこと。(内容略)
をヘーゲルの論理学の発展への寄与とした。それはへーゲル論理学のうちの肯定的側面としてマルクスに受げつがれた部分でもある。

一方でヘーゲルの論理学は根本的(致命的?)な欠陥を持っている。

見田石介は
へーゲルの方法は、
①叙述的方法: 現実の事物の原理としての概念から具体的なものを展開する方法
②演繹的方法: 抽象的な要素から具体的なものを総合する方法
③歴史的方法: 探求の過程に沿った方法
の3つを区別できなくなっている。結局①の方法に集約させてしまう。
哲学史の歩みに照応した認識の深まりの歴史的過程も、実際に事物を分析し総合して行く合理的な認識過程も、すべて萌芽としての根本概念からの発生的展開という衣を着せられてしまう。
へーゲル自身、論理学の中で分析と総合をおこないながら、これに概念の自已展開という移式を無理にあてはめるのである。
これがへーゲルのいう「絶対的方法」の根本的欠陥である。

と書いた。