「1968年7月11日クーゲルマンあての手紙」

榎原均さんのページを使わせていただきました。すなおに尊敬に値する経歴の持ち主です。


社会的総労働の配分論としての商品論

世の中にはいろいろな欲望があり、それぞれが一定の量を持っています
それらのいろいろな欲望量に対応して、いろいろなものが生産されます。
それらの生産物が生産されるためには、いろいろな社会的総労働が必要となります。
それらの生産物、さらにそのための労働については、いろいろな“量的に規定された量”がもとめられるでしょう。

これは子どもでもわかることです。

このように一定の割合で社会的労働を分割することは、いつの世の中でも必要です。

もちろん社会のあり方によってその現象様式は変りうるのですが、労働の社会的分割そのものは必ず必要です。それはけっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではありません。
(どうも社会的分割というのは分業ではなく、いわば「社会的協業」ともいうべき共同作業を指すようだ)

自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。
歴史の移り変わりとともに変化するのは、それらの諸法則が貫かれる形態だけです。
その歴史的形態の一つが交換価値です。

なぜ交換価値が特殊なものなのか。それはある種の社会的生産の形態に伴って発生するからです。

それはどういう社会か。
それは「社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会」です。
つまりそれは、生きた人間同士の関係が、労働生産物の交換を通じて実現される社会です。
しかも生きた人間は生産を個人的に行い、生産物を私的に交換するのです。それが主要な社会関係となっているような社会形態は商品社会と呼ばれます。

交換価値は、商品社会という社会形態での労働分割形態の(量的な)表現なのです。


ここまでが本文。榎原さんは話をわかりやすくするために、ロビンソン・クルーソーの挿話を付け加えている。

ここで自然法則とされている労働の社会的分割に関して、マルクスは「ロビンソン物語」を念頭に置いていると思われる。

ロビンソンには生産的な仕事がいろいろとある。彼は、それらの仕事が自分の身体活動の、したがって人間的労働のちがった形態にすぎないことを知っている。

彼は、必要に迫られている。生活のために彼のさまざまな仕事時間を正確に割り振らなければならない。どの仕事をより長く、どれをより短くするかは、目的とした有用効果の達成のために自ずから定まる。経験が彼にこのことを教える。『第一篇 商品と貨幣 第一章 商品 第四節 商品の物神的性格とその秘密』

ここで明らかなように、ロビンソンの労働配分は、一方における欲求、他方における必要労働時間を勘案して決められる。
この場合、商品も交換もないのだから交換価値も抽象的労働も存在しない。欲求量と労働量とは、ロビンソンの内部において一致している(せざるを得ない)。


ロビンソンの次に「農民家族の素朴な家父長的な勤労」が考察される。
家庭内で農耕、牧畜、裁縫などが自然発生的に分業される。それらは、商品生産と同じように機能する。しかし個人の労働は共同的労働力の器官としてのみ作用する。
家族という共同体内部では、日々の必要量、個々の労働を担う成員の能力が前もって明らかになっている。それが労働の社会化のを成立させる柱となっている。