この間読んだ文献で、マルクスの真髄は労働価値説よりも私的所有の廃棄にあるのではないか、と書かれていて気になっていた。

そこで、所有の問題をロックからヘーゲルと引っ張ってきて、市民社会の根底に据え、それを覆すことを革命論の中核に据えた、という議論が本当に正しいのかを少しかじってみたい。

ヘーゲルの「法の哲学」第41節

「人格が(法的な)理念として成立するためには、自分の周囲にある「自由圏」を自分に与えなくてはならない。

持って回った言い方だが、自分の周囲の「自由圏」を自分のものになってはじめて人格が成立する、つまり人格というのは「自分+自分の所有する自由圏」ということになる。

したがって、「所有」とは自由の最初の現実化であり、自由の最初の実在性である。


「法の哲学」第42節

自由圏は本質的に外界であるが、人格に取り込まれることにより、「物件」と呼ばれるようになる。そしてそれは法律的な関係の中に立つ。

人格は発展し、自由圏は拡大する。したがって人権のもたらす物件は増大する。


第43節 交換可能な物件

物件の中には2つのものが含まれる。ひとつは人格と分かちがたく結びついた生命や肉体、天賦の才能といった物件である。

この他に第二の物件もある。それは人格が意志を以って、自らの能力によって生み出した所産である。

これら第二の物件は、外的な自然の諸物件と同じように契約や売買の対象とすることができる。

ただし人格の支配のものに置くことができない自然対象、太陽や星などは物件とはなりえない。

第44節 物件に対する所有権

外面的に見れば、物件はいかなる自己目的も持たない。これを所有に結びつけるのは、人格の意志である。

物件とはあるものを物件にしようとする意志の産物でしかない。

ここでヘーゲルの物件論は一旦無内容になる。

第45節 占有と所有

所有一般は誰かのものにすることであるが、占有は私のものにするということである。

所有は状況であるが占有は行為であり意志である。

占有が所有となるためには、それが合法的に行われた上で、社会全体から承認されなければならない。

所有を指すドイツ語

ヘーゲルはDas Eigentum を用いている。所有ではなく財産と訳されることもあるが能力という意味を含むので資産というべきである。

46節 私的所有の必然性

所有という形で私の意志は客観的なものとなる。自然は人の意思を受け入れ、この時所有は私的所有という性格を帯びる。

ずいぶん持って回った言い方だが、ヘーゲルは観念論者の宿命として、いかに述語に主語を持たせないかに気を使う。

ロックは私有財産を労働から基礎づけた。
ルソーは私有財産を技術の発展から基礎づけた。
ヘーゲルは“個別的な意志の排他性” から私的所有の必然性を基礎づけた。

ヘーゲルは、ここでは社会関係の枠組みを無視して議論している。しかし政治家ヘーゲルは、後の段で、「国家という理性的な有機体」に対しては、共有や公的所有を認めている。


47節 生命と肉体への権利

私は私の精神と肉体を所有する。それは他の物件を人格として所有するのと同じである。

動物も彼らの霊魂により自分を占有している。しかしそれは意志による占有ではないから、権利による所有ではない。彼らは自分の生命に関するいかなる権利も持っていない。

肉体はただの現存在であるかぎり精神的なものではない。それが精神の器官となり手段となれば、それは自由で意志的である私の一部となる。そのような肉体に加えられた暴力は私に加えられた暴力である。

だから何やちゅうねん。

49節 財の平等

具体的な人間は、個人として、各自異なった欲求や目的を持ち、能力や機会も異なっている。結果として財の占有には偏りが出る。

抽象的な同一性に固執する平等論は空虚である。

しかし生計は占有の概念とは別に語らなければならない。生計は抽象法の範疇ではなく、「市民社会に属する問題」である。