581年 楊堅、隋を建国。文帝を名乗る。

587年 蘇我馬子、河内の物部守屋を滅ぼす。継体天皇以来の物部政権が終わり、蘇我政権に移行。

589年 隋が南朝の陳を平定。中国が統一される。三韓諸国は相次いで隋に遣使する。

595年 高句麗人の慧慈、飛鳥寺建設のため派遣される。

598年 高句麗と靺鞨との抗争。隋は高句麗が国境を侵犯したとし、水陸30万の遠征軍を派遣する。

608年 隋の裴世清が来航。

610年 高句麗人の曇徴が来航。

612年 煬帝、100万以上の大軍を率い高句麗に親征。首都平壌の襲撃まで至ったが、最終的に撃退される。

613年 煬帝、再度高句麗に親征。国内に反乱が発生したため挫折。

614年 煬帝、三度高句麗に親征。逃亡兵が続出した上、国内での反乱が相次いだ。高句麗の王が自ら朝貢する条件で和議。

617年 煬帝、4度目の高句麗遠征を企画。各地で大規模な農民反乱が発生し、実施不能となる。

618年 煬帝が近衛軍団によって殺害され、内乱となる。

内乱を勝ち抜いた李淵が高祖を名乗り、唐を建国する。

621年 三韓諸国が揃って唐に朝貢する。

624年 唐の高祖、高句麗と和睦。高句麗王を遼東郡王、百済王を帯方郡王、新羅王を楽浪郡王に冊封する。

627年 百済が新羅を攻撃。新羅は唐に援助を求めるも援助を得られず。

630年 唐は東突厥を滅ぼし、高句麗を次の目標とする。

631年2月 高句麗は国境沿いに長城を築いて唐からの侵攻に備える。

632年 唐使の高表仁、難波津に到着。大和王朝の無礼に怒り、天皇と会わないまま帰国(旧唐書)

633年

8月 百済、新羅西部に侵入。

635年 新羅、唐より柱国・楽浪郡公・新羅王の爵号を受ける。

641年11月 百済で大規模な政変。義慈王が事件を通じて大幅な王権強化を目指す。

642年 高句麗で淵蓋蘇文が、権力の集中を目論んでクーデター。栄留王を殺害し、宝蔵王を王位につける。

ウィキペディアでは淵蓋蘇文、ブリタニカでは泉蓋蘇文を取る。『日本書紀』では「伊梨柯須弥 」(いりかすみ) 

7月 百済、新羅の伽耶地方の40余城を陥落。新羅は高句麗に救援を求めるが果たせず。

642年末 百済王室でも政変が発生。

643年 高句麗と百済の間で和睦が成立する。

643年 百済、皇子扶余豊璋を廃太子し、倭へ人質として送る。

9月 新羅、唐に救援を求める。唐は支援の条件として善徳女王の廃位をもとめる。

643年 舒明天皇が死に皇極天皇が即位。蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲。聖徳太子一族が滅亡。

645年

2月 唐の太宗、10万の軍勢を率い高句麗へ親征。新羅と百済に対し闘いに参加するよう求める。

5月 新羅軍3万が高句麗攻撃に参加。激戦の末に撃退される。

645年 乙巳の変。新政権は難波を王都とし、中央集権体制を強化。

647年 高句麗、唐の第2,第3次攻撃を跳ね返す。 

647年 新羅で親唐・廃位派の?曇(ひどん)が反乱。金?信がこれを鎮圧。

648年 唐が新羅支援を約定する。新羅は官制を唐に合わせ変更、独自の年号を廃し、唐の属国となる。

649年 唐の太宗、高句麗制圧を果たせぬまま死去。これに代わった高宗は、百済と高句麗の安堵と引き換えに新羅との和平を命令する。

651年 左大臣巨勢徳陀、中大兄皇子に新羅征討を進言する。中大兄はこれを採用せず。

655年 高句麗、百済と共に新羅に出兵。33城を奪取する。

658年 唐は新羅の要請を受け高句麗を攻撃するが失敗に終わる。このため最初に南の同盟国百済を攻撃する戦略に切り替え。

660年 唐、水陸合わせ13万の軍勢で百済に侵攻。滅亡させる。

百済の残存勢力が反乱を起こす。これを倭国が支援。

661年 唐が高句麗への攻撃を開始。首都平壌は半年の間包囲されたが、唐軍の撃退に成功。

663年 白村江の戦い。百済軍はこれをもって壊滅。

666年 高句麗軍の指導者、淵蓋蘇文が死亡する。長子男生と、弟の男建・男産が対立。

668年 長子男生は唐に内通し、内部から解体。

668年 高句麗、1ヶ月にわたる平壌包囲戦ののち降伏。

668年 唐は新羅の文武王を大都督とし、平壌に安東都護府、旧百済領に熊津都督府をおき管轄した。

670年 新羅、高句麗からの亡命者を「高句麗王」に封じる。

3月 高句麗遺民軍と新羅軍が平壌を制圧。鴨緑江を渡り唐軍を攻撃する。

671年 新羅は高句麗の使者を倭国に朝貢させることで、安東都護府への対抗姿勢を明らかにする。

671年 新羅は、百済地域の唐軍も攻撃。泗?城など82の城を奪う。

10月 唐の水軍、黄海で新羅水軍に敗れる。

672年

7月 唐軍と靺鞨軍が平壌を占領。

12月 白氷山の戦。高句麗復興軍と新羅軍が唐軍に敗れる。

673年 高句麗復興軍、瓠瀘河の戦闘でも唐軍に敗れ、衰退する。

674年 新羅、旧百済領内に高句麗遺民軍の領地「報徳国」を設定。「報徳王」を据える。唐は新羅征討のため軍を派遣。

1月 唐、新羅が旧百済領を蚕食したことを怒り、文武王の冊封を取り消す。

675年

2月 文武王、唐に謝罪使を派遣し、鶏林州大都督に復帰。

9月 泉城の戦と買肖城の戦で新羅軍が唐軍に勝利。

676年 伎伐浦の戦。新羅が唐軍を破り、旧百済領をふくむ朝鮮半島南部を確保する。唐は、熊津都督府と安東都護府を遼東に移し、朝鮮半島から撤退した。

678年 唐、西方の吐蕃の勢力拡張への対応が必要となり、朝鮮半島への介入を断念。

684年 新羅内の亡命政権が取りつぶされる。