これは斎藤修さんの 「江戸と大阪」(NTT出版 2002)の読書メモです。
実証的な文章で、読み流すにはやや苦しい。しかし数字には説得力があります。
幕末から明治初期にかけてなぜ大阪が地盤沈下したか、それは東西の力関係にどのような影響を及ぼしたか、という問題は、堺市長選挙以来の私の宿題ですが、まだすっきりとした結論は得られていません。

第5章 江戸と大阪の歴史人口学

江戸と大阪は江戸時代はじめの150年間大きな差異はなかった。

1.武家を除けば、地方からの男性単身赴任者の流入によって人口は支えられてきた。

2.都市自体の人口再生産能力は低く、流入者が減るとき人口は停滞した。

3.都市の死亡率は地方より高かった。中世以降、都市は墓場であリ続けた。そして18世紀以降この傾向はより顕著になった。

4.18世紀初め、江戸の男性は女性の1.7~1.8であった。しかし19世紀初頭にはこの男女差は消失していた。

この傾向に変化が現れたのは、1850年ころ、明治維新の直前である。

変化は特に大阪で顕著であった。大阪の人口は年平均0.3%の比率で減少した。市街からの流入者は減りほぼ出生者のみの人口に落ち着いた。理由は大阪への商品入荷の減少であった。大阪を経由した商品流通が直接江戸に流れるようになったためである。
これに伴って文化でも「文運東漸」が起こり、上方文化の多くが流出した。

同じ時期、江戸では人口は0.1%の微増を続けた。

大阪では、後継者育成システムの劣化もあったと言われる。大阪の商家では古い奉公人制度が残存し、丁稚から手代になって独立するのに30年を要した。
鴻池家の手代の家持ち(独立)時の平均年齢は37歳、三井は39歳であった。これではイノベーティブな人材は育たない。
妻との年齢差は上層では10歳を超える。下層でも7歳に達する。子供の数も0.4人にすぎない。

同じ時期、江戸では奉公人制度は崩壊し、大阪のような手代層は消失していた。雇入れは短期で流動的なものとなった。その結果、流入者数が維持され、産業の拡大に伴う人材養成に応じることができた。(正直のところ、あまり納得はできないが…)

しかし江戸でも人口は停滞した。東京の人口増にドライブがかかるのは明治20年代、松方デフレの収束後のことである。