1.「経済学」という言葉の範疇

何度も引用するのだが、三木清が「心理学」を批判したことがある。

以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。
人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。
…かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまった。

2013年11月09日 三木清「幸福について」を参照されたい。

ようするに、心理学という言葉の剽窃であり、しかも厚かましくも商標登録してしまったみたいな感じである。

どうも新古典派の経済学にも同じ匂いが感じられてならない。

2.「経済学」の研究対象

言うまでもなく近代経済学というのはケネーの再生産表に始まり、スミスによる重商主義からの脱皮、労働価値説と進む中で、「価値論」を中心に展開してきた。

それはリカード、マルクスへと連なっていくわけで、マルクスが政治的に異端であるから異端というわけではなくまさしく経済学の王道なのだ。それはいまでもそうだと思う。

これに対し、新古典派と称されるいくつかの潮流がいずれも需要・供給関係を中軸とする市場メカニズムの探求に集中・特化してきた。

それは流通過程の一局面であるが、決定的に重要な局面でもある。そこで生産者は「命がけの跳躍」をしなければならない。

ただ個別の跳躍は、全体の流れの中では必然的過程として理解される。

それは鮎が瀬を跳び上がって上流に進むのに似て、まさにミクロな行為だ。

3.マル経は近経の一部分になるべきか

たとえ、百歩譲って、新古典派のミクロ経済学を経済学の主流だと認めるとしても、それは経済の諸分野の中の一つだと言うことを主張したい。

「価値論」を中心的関心領域とする「制度経済学」は市場中心志向の「経済学」とは別の分野の学問として独立した扱いを必要としている。

この「価値」志向型経済学は、マル経の閉鎖性のゆえに統一したアイデンティティを持たずに過ごしてきた。

スミスやリカードは「資本論」を書くための踏み台扱いされてはならない。マルクスが最晩年に苦闘した第二部草稿は、まさにスミスとの思想的取っ組み合いだ。

だれかが、一度スミスからマルクスに至るレビューを行い「古典派ミクロ」経済学の骨格を再構築してほしいと思う。

おそらく、「剰余価値学説史」を通読することで、見えてくるものがあるのではないかと思うが…