ナポレオン戦争とドイツ
ヘーゲルの思想遍歴を知る上でナポレオンのドイツ侵略はよけて通れない。
フランス革命がそれ自体は隣の国の事情であったのに比べ、ナポレオンの侵攻はすべてのドイツ人が巻き込まれる一大事であった。
否が応でもフランス革命の必然性、神聖ローマ帝国の行く末、ドイツの近代化についてすべてのドイツ人が思いを致さざるを得なくなった。
そのなかで辺境国プロシアが「近代化」の道を歩みだしたとき、ドイツ人に方向をしめしたのがヘーゲルだったとすれば、その政治姿勢がヘーゲルへの支持を呼び込んだのではないだろうか。
精神現象学もエンチクロペディーもその後に付いてきたのではないのか。
1792年 フランス革命戦争が始まる。市民革命の波及を恐れる周辺諸国のフランス侵攻が引き金となる。
フランスでは農民や都市下層民を中心に50万人規模の志願兵が集まる。
1793年 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによって第一次対仏大同盟が結成される。
1795年 ポーランド、プロイセン、オーストリア、ロシアによって分割され国家として消滅。
1796年
3月 第一次イタリア遠征の開始。ナポレオンがイタリア方面軍司令官に就任する。
1797年
10月 北イタリア戦争、フランス側の勝利に終わる。フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合。オーストリアの敗退により第一次対仏同盟が解体。
1798年
7月 ナポレオン軍がエジプトを制圧。しかし英国に制海権を奪われ孤立。
12月 イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟が結成される。
1799年
11月 ブリュメールのクーデター。エジプトを脱出したナポレオンが政権を握る。
1801年
2月 オーストリアとの間で二度目の陸戦となるが、ナポレオン軍が勝利。第二次対仏大同盟も崩壊する。
1802年
3月 アミアンの和約。イギリスとフランスが講和。
1803年
5月 イギリスがアミアンの和約を破棄してフランス第一共和政に宣戦。ナポレオン戦争の始まりとされる。
1804年
12月 ナポレオンが戴冠式。第一帝政が発足する。
1805年
イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシアが第三次対仏大同盟を結成し戦争を挑む。プロイセンは中立的立場を取る。
9月 ナポレオン、ウルムの戦闘に勝利しウィーンに入る。
10月 トラファルガーの海戦。フランス・スペイン連合艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊により壊滅される。
12月 アウステルリッツの戦い。ロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑むが敗北。
1806年
神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖でも、ローマでも、帝国ですらない帝国が崩壊する。
7月 西南ドイツ諸邦が親ナポレオンのライン同盟を立ち上げる。
7月 プロイセンは中立を破棄し、イギリス、ロシア、スウェーデンなどと第四次対仏大同盟を結成。
10月 プロイセン、フランスへの単独宣戦。ナポレオン軍が怒涛の進撃。プロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的打撃を受ける。
10月 ナポレオン軍がベルリンを制圧。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、東プロイセンのケーニヒスベルクへ逃げ込む。
シャルンホルストはリューベックで、グナイゼナウはマルデブルグで最後まで抗戦し、弾薬が尽き降伏。
11月 ベルリン入りしたナポレオンが、大陸封鎖令を発布する。
1807年
2月 ナポレオン軍、東プロイセンに入りプロシア・ロシア連合軍と戦闘。吹雪の中、膠着状態に入る。
6月 東プロシアの闘いはナポレオン軍の勝利に終わる。
7月 ティルジットの和約が結ばれる。ポーランド旧領の一部がワルシャワ公国として独立を回復。プロイセンはエルベ川以西の領土を失う。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれナポレオンの弟が即位する。
屈辱的な敗北を喫したプロイセンでは、哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行い、またシャルンホルストとグナイゼナウによる軍制改革が実施された。
1808年
5月 ナポレオン、スペインを併合。スペインで国民的な抵抗が起こり泥沼化。
1809年
4月 オーストリアは、イギリスと第五次対仏大同盟を結びバイエルンへ侵攻。ナポレオンは直ちに反撃しウィーンを制圧。
10月 オーストリアは領土の割譲と巨額の賠償をせまられる。
1810年
ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。
1812年
6月 27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍がロシア国境を渡る。ロシア軍は正面対決を避けつつ、焦土戦術によって食料の補給を断つ。
10月 ナポレオンはモスクワからの撤退を決意。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。故国に帰還したのはわずか5,000であった。
ロシアはドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。プロイセンにも同盟を提起する。
1813年
3月 プロイセンがフランスへ宣戦布告。ドイツではこれを「解放戦争」と呼ぶ。
国軍のみならず義勇軍も組織され、国民意識鼓吹のため「鉄十字勲章」も創設される。
8月 イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第六次対仏大同盟が成立。
10月 ライプツィヒの戦い。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃。フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。ドイツでは「諸国民の戦い」と呼ばれる。
1814年
3月 連合軍はパリに入城。ナポレオンは退位する。ルイ18世が即位し王政復古。
1815年
3月 エルバ島を脱走したナポレオンは、パリに入城して再び帝位に就く。
6月 ワーテルローの戦い。フランス軍は完全に崩壊する。
なにかテーマのはっきりしない年表になってしまった。いちどナポレオン年表を作ってからにすべきだったのだろう。
ナポレオン戦争に勝利してからのプロシアの近代化は、明治維新から日清・日露に至る日本の近代化に比肩されるだろう。そんなつもりで一度追って見る必要がありそうだ。
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