たしかルイス・ポサダ・カリーレスについては一文をモノした記憶があるのだが、現物は存在しない。

とりあえず年表から拾っておく。

最初に文献に名前が登場するのは1963年1月である。

前の年、10月中旬から11月初めにかけてキューバミサイル危機があった。それが一応沈静化して、12月にはピッグス湾侵攻作戦で捕虜になったキューバ亡命人2506部隊が釈放された。

これは殺人狂を野にはなったようなものだった。

CIAは隠密裏にカストロ暗殺計画を建て、彼らを実行役に仕立てる。本拠地はメキシコ支局内に立ち上げられた。ボスがフィリップスでハントが支局長代理となった。ゲリラ部隊が中米各地,ジャクソン基地,ベニング基地などで訓練に入った。この時のキューバ人幹部のリストの中にフェリックス・ロドリゲス,ニーニョ・ディアス,ボッシュらに加えてポサダの名があげられている。

ポサダはバチスタ独裁政権の時代に警察の幹部として人民弾圧にあたった。亡命後は米軍のレンジャー部隊大尉を勤め,破壊活動と爆発物の専門家として頭角を現していく.

彼らの名はそっくりそのまま、ケネディ暗殺事件の暗殺チームにふくまれる。

ケネディ暗殺後、一方ではベトナム戦争の激化により、他方ではラテンアメリカ各地でのゲリラ闘争の発生により、彼らは分散していく。フェリックス・ロドリゲスはゲバラの殺害に関わった。ポサダはベネズエラに入り、ペレス大統領(当時内相)の補佐官に就任し、「左翼組織抑圧のための傭兵部隊」を指導することとなった。

次にポサダの名が登場するのが、キューバ航空のジェット機爆発事件である。76年10月6日、キューバ航空のDC-8機が,バルバドス空港を離陸10分後に上空で爆発.乗客など73人全員が死亡した.この飛行機は,ガイアナの首都ジョージタウンからトリニダード,バルバドス経由でハバナに向かっていた.乗客のうちキューバ人は57人.うち半分はフェンシングのキューバ代表選手たちだった。

2人の犯人はトリニダードから乗り込み,トイレに爆弾をセットしたあとバルバドスで降り,米国大使館に駆け込んだ。このあとバルバドスからトリニダーに逃れるが,空港で現地警察により逮捕されてしまった.当時のトリニダードの首相エリック・ウィリアムズはCIAとの関係を示すノートの存在を明らかにした。

彼らはベネズエラ人で、ベネズエラ国内でオルランド・ボッシュとルイス・ポサダ・カリーレスの指示を受け,犯行へ参加したことを自白した。ベネズエラ官憲は二人を逮捕した。ボッシュは,獄中でNYタイムズと会見.50件以上の爆弾テロ作戦を行ったと喋った.

キッシンジャーは爆破事件へのCIAの関与を全面的に否定したが、現在ではチリのクーデター、その後亡命したアジェンデ政府の元内相レテリエルの暗殺にも関与したことが明らかになっている.ノーベル平和賞とは飛んだお笑い草だ。

これで話が終わったと思ったが、ニカラグアでのサンディニスタの勝利とアメリカの干渉により、ふたたび戦火が燃え上がった。テロや破壊作戦のベテランであるポサダは、CIAにとって必要な人物とされた。

85年8月、ベネズエラのフアン・デ・ロス・モロス重刑務所で大脱走作戦が展開され、ポサダ・カリレスが見事救出された。後にイラン・コントラ ゲート事件の調査では,オリバー・ノースはじめ米政府関係者が,脱獄とその後の活動に援助を送ったことが明らかになっている。カリレスは米国務省職員として採用され, エルサルバドルのニカラグア人道援助局の局長補佐に任じられる.

ポサダはエルサルバドルの米軍基地に籍を置き,NSCの直接指示の下,ニカラグアへの武器の配布に従事した。

それから1年余、86年の10月にハーゼンファス事件が起きるに及んで、ふたたびポサダの名はメディアに登場する。コントラへの物資支援のためエルサルバドルを飛び立ったC-130貨物輸送機が、ニカラグア領内で撃墜される。逮捕された機長ハ-ゼンファスは,補給作戦の指導者がフェリックス・ロドリゲスとルイス・ポサダであると自白する。さらにフェリックス・ロドリゲスがブッシュから直接指示を受けていたと供述したため、米議会は調査に乗り出した。これがイラン・コントラゲート発覚の緒となっていく。

97年11月、ハバナのホテルで連続爆弾事件が発生した。マイアミ・ヘラルド紙は,キューバ系米国人が参加していたことを明らかにする.報道によれば爆弾事件の背後には「バンビ」と呼ばれる亡命キューバ人が存在していたとされる.

キューバの新聞グランマはこれを追跡報道し、「バンビ」の本名はルイス・ポサダ・カリレスであると明らかにした.当時ポサダはCIA要員として中米各地で活動.エルサルバドルではラモン・メディーナ,グアテマラではフアン・リバスの偽名を用いる.紛争終結後は「バンビ」の偽名を用い,画家として売り出していたという.

しかし、当時の状況のもとではキューバ当局は切歯扼腕するほかなかった。

2000年11月、またしてもポサダの名が浮かび上がる。おりからパナマで第9回イベロアメリカ・サミットが開かれ、フィデル・カストロも出席を予定していた。

その直前になってパナマ当局は市内のサンフランシスコ・ホテルに滞留中の亡命キューバ人テロリスト4名を逮捕した.室内には数万ドルの現金があった.ついでトクメン国際空港の近くでC4プラスチック爆弾8キロを発見した。

彼らは、その自供によればカストロを,「肉体的に抹殺しようと」していた.これはキューバ情報機関からの情報にもとづくものであったという。

キューバ情報機関は情報源を危険に晒しかねない危ない橋を渡ったわけだ。それだけの価値はあった。4人の筆頭にはポサダ・カリーレスの名が挙げられていたのである。

暗殺計画には二つの説があり、一つはカストロを載せた飛行機を地対空ミサイルで撃ち落とすというもの。もう一つはパナマ大学で講演予定だったカストロを,車で移動中に襲撃する計画。

2004年4月、パナマ第五刑事裁判所は、被告らに「集団の安全に対する罪及び公文書偽造」で有罪判決を下した。すでに76歳となったポサダ・カリレスに禁錮8年の経が言い渡された。判決では「「発見されたプラスチック爆弾は、衝撃が200メートルに及ぶ高性能なものであり、カストロ議長及びその周囲の人々に重大な害を及ぼす明確な意図があった」と認定された。

キューバ政府は量刑の不十分さを指摘しながらも「多くの人々を殺害しようとしたテロリスト」という認定に満足した。

ところがアメリカの圧力を受けたパナマのモスコソ大統領は、犯人に恩赦を与え、48 時間以内に国外に退去するよう通告したのである。彼女は「キューバかベネズエラに犯人を引き渡せば,命が失われることになるため」と説明した.

マイアミ紙によれば、パウエル国務長官がモスコソにポサダらの釈放を要請したとされる。しかし釈放後には「アメリカはいっさい関わっていない」と釈明した.スパイ大作戦のセリフみたいだ。

ポサダの行方はそのまま不明となった。各国が非難声明を出した。エルサルバドルさえも入国を拒否した。

翌05年4月、ポサダ・カリレスがマイアミに出現。政治亡命を申請した。1ヶ月前にメキシコから不法入国していたという。顧問弁護士は、「ポサダは約40年にわたってCIAに協力してきており、保護されるだけの要件を備えている」と強調した。

ポサダはどうどうと記者会見を開いた。米政府は会見が終わったのを見計らって不法入国容疑で拘留した。

ブッシュ政権は亡命申請を却下するが、「送還すれば拷問が行われて公正な裁判が見込めない」として送還を拒否した。

 ハバナではポサダの引渡しを要求する120万人のデモが行われた。

07年4月、テキサスの連邦地裁はルイス・ポサダ・カリレスの保釈を認める。結局アメリカ政府は稀代の爆弾テロリストをかばい通したことになる。

私はここまでしかフォローできていない。この時点で77歳だから、もう生きていないかもしれない。しかしこの男が畳の上で死ねるとは奇跡である。