なんの役に立つやらわからないが、とりあえず載せておく。むしろケインズ第2世代へつなげていくためのイントロという位置づけになるのかもしれない。

1883年 ジョン・メイナード・ケインズ、ケンブリッジに生まれる。

1902年 ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学。G.E.ムーアの主催する「ザ・ソサエティ」に加わる。

1904年 政治問題を討論する学生団体「ユニオン」の会長となる。

1905年 キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)を卒業。数学で学位取得。

1906年 高等文官試験に合格。インド省に勤務。

1908年 インド省を退官しケンブリッジ大学で貨幣論を研究。マーシャルに経済学者になることを勧められた。

1909年 特別研究員として金融論を担当。

1909年 『エコノミック・ジャーナル』に「インドにおける最近の経済事情」を書く。

1913年 インド省での経験に基づき処女作『インドの通貨と金融』 を発行。金本位制の問題点を指摘し、最良の国際通貨システムとして金為替本位制を提唱する。この視点は晩年のバンコール構想へとつながっていく。

1913年 王立経済学会書記長に就任。死亡直前まで務める。

1914年8 月,イギリスはドイツに宣戦を布告した。第一次大戦の勃発

1915年 28歳でエコノミック・ジャーナル誌編集長に就任。

1915年1月 大蔵省に勤務。戦争の金融的管理を扱う第1課に配属、さらにはそこから独立したA課の長に任命され、国際金融問題を担当する。同盟諸国間の戦時借款制度の構築を担当。特に米国からの資金調達に力を発揮する。(まぁ他にはないよね)

1918年 二人の大蔵次官につぐ次官補まで昇任。

1919年 パリ講和会議に省首席代表として参加する。

8月 対独賠償要求に反対して辞任。

「平和の経済的帰結」を発表。報復的な補償要求は、ドイツのみならずヨーロッパを破壊させると主張。ベストセラーになる。

1920年 大蔵省A課の人々と投資会社「A.D」を設立。インサイダーまがいの投資で巨利を得る。この年、ピグー『厚生経済学』を出版。イギリス共産党結成。

1921年 『確率論』発表。中身はよくわかりません。

1922年 ジェノア国際経済会議に「マンチェスター・ガーディアン」紙特派員として参加。

1923年 『貨幣改革論』発表。保守党のデフレ政策批判、ついで金本位制復帰論を批判。

1924年 初の労働党第一次マクドナルド内閣成立。自由党は小選挙区制のため激減。

1924年 ロイド-ジョージの公共事業計画案を支持。『自由放任の終わり』発表。

市場社会は「似而非道徳律と経済的効率性のジレンマ」を内包している。市場社会は経済的効率からは便宜的に必要ではあるが、似而非道徳律に立脚しているから、いずれは否定さるべき存在である。

1925年 『チャーチル氏の経済的帰結』を発表。金本位制を復活させたチャーチル蔵相を徹底批判。

1925年 ロシアのバレリーナ、Lydia Lopokovaと結婚。ただしケインズはホモだったと言われる。

1926年 炭鉱労働者が長期ストに突入、五月ゼネストに発展する。ケインズは、労働者に同情する立場を表明。

「資本主義は、賢明に管理されれば、いかなる制度よりも有効に経済目的を達成するだろう。しかし、多くの点できわめて好ましくない点がある」 

1928年 自由党が『イギリスの産業の将来』を発表。ケインズは執筆の中心となる。

1929年 

5月 労働党がはじめて第一党となり、第二次マクドナルド内閣が成立。ケインズは「マクミラン委員会」委員として参加。

10月 大恐慌が始まる。ケインズは、企業の投資が過小であるとし、失業を減らすために公共事業を増やすよう提案。

1930年

1月 経済諮問会議委員となる。7月にはそのサブ・コミティーである「経済学者委員会」の委員長に就任。

30年 『貨幣論』発表。ハイエクとの間で論争となる。

理論をさらに一般化するためリチャード・カーン、 ジョーン・ロビンソンら若手理論家と共同作業を開始。

1930年 100 年後を見越した『孫の世代の経済可能性』を執筆。

1932年 イギリス、輸入税法を制定。自由貿易政策を放棄する。ポンド=ブロックの結成に動く。

1933年 ドイツでヒトラーが首相となる。アメリカでローズヴェルトが大統領に就任、ニュー・ディール政策を実施。

ケインズの主張: 失業者に生活維持費の一部を費やすよりも、造船工を失業させておくほうが、国富を増加させるのにより経済的だと考える政治家がはたして正気なのだろうか。

ケンブリッジ大学でケインズ革命の動き。ジョーン・ロビンソン『不完全競争の理論』を出版。

6月 ロンドンで世界経済会議。国際金本位制の再建を目指すが失敗。

1934年 ケインズ、アメリカに渡りローズヴェルトと会う。

1936年

1月  『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表。

雇用の量は、財市場と貨幣市場の相互関係で決定される。それは一般的に不完全雇用均衡に陥りやすい。

2月 スペイン、フランスの総選挙で人民戦線が勝利。ケインズは対ドイツ宥和政策を支持する。

1937年 心筋梗塞により一時重体に陥る。

1938年

9月 ミュンヘン会議。チェンバレンは、フランスとともに宥和政策を推し進めた。

38年 グラハム、金本位制に代わる国際「商品準備貨幣」案を提案。ケインズはこれを積極的に受け止める。

1939年

9月 ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦始まる。

1940年 

7月 ケインズ、大蔵省のアドバイザーに就任。戦時経済統制の立案に当たる。「戦費調達法」(How to pay For the War)を発表。物価インフレ阻止のために「強制貯蓄」や配給策を奨励する。

さらに戦後の世界秩序形成に関する提言活動。国際通貨体制として「清算同盟案」を提唱。またベヴァリッジ案の策定過程で大いなる協力・支援を行う。

1941年

1月 ローズヴェルトが年頭教書で武器貸与法を声明。ケインズがアメリカに渡り、武器貸与法に基づく交渉。

6月 ドイツがソ連に侵攻。

10月 イングランド銀行理事に就任。

1942年 戦後の世界金融体制のため討論が始まる。イギリス案はケインズが、アメリカ案は財務長官モーゲンソーを助けたホワイトが中心となる。

 ケインズ男爵位を受爵。上院議員となり自由党席につく

1943年

3月 戦後世界金融制度のための討議。アメリカに渡ったケインズはホワイトと厳しい交渉。

ケインズは、国際決済連合と国際通貨「バンコール」を提唱。ホワイトは参加国の通貨で保管される国際為替平衡「基金」を提唱する。

1944年

7月 ブレトンウッズ通貨会議が開催。ケインズはイギリス首席代表として出席。各国の通貨が対ドル固定レートを維持し、米国はそれに対応するだけの地金を準備することとなる。

1945年 戦後復興に向け米国との借款交渉に当たる。

1946年

46年 国際通貨基金および世界銀行の創立総会に理事として出席。

4月21日 心臓発作で倒れ、サセックス州の山荘で没する。