前期ヘーゲル とりあえずの感想

かなり等身大のヘーゲルが見えてきた。

キリスト教に首まで浸かった青年がフランス革命に触れて、宗教の改革に乗り出す。
キリスト教から秘義や奇跡を取り除いたときに、フランス革命がギロチンとともに転げ落ちる。
仕方なしに「カントの道徳」に挿げ替えて民族宗教から衣替えしようとするが、そんなときにシェリングから神様なんてもうやめたらと言われ、ショックに陥る。
そこでシェリングから教わったスピノザの汎神論を使ってみたら、非常に使い心地が良い。それでやっているうちに、カントの道徳律とスピノザがどうも相性が悪い。
シェリングを見ると、彼もカントやフィヒテの2元論を使わないで世界を説明する方向でやっている。

そこで、イエナ大学で二人でカントとフィヒテを排除してスピノザ的理論構築をしていこうということになった。
それでシェリングは世話になったフィヒテと面と向かって喧嘩はやりにくいというので、ヘーゲルが汚れ役を引き受けることになった。

ところが、フィヒテを切り刻んでいるうちに、フィヒテの最大の問題意識、物自体への切込みと主体の構築という点で、どうもこの視点は捨ててはいけないなということになったのではないか。
たしかにスピノザのいう根源的実在の自己展開というのは正しいのだが、その根源的実在というのは自己意識ないし精神なのではないか、なぜなら物自体に時代を駆動する力はない、人間の感情が時代を駆動するのだから。

と、ここがすごい一人よがりなのだが、そう思い込んでしまう。
それでシェリングとスピノザを串刺しにして、先験論ということでやっつけてしまう。
ただし、スピノザにおいて先験知は本質的な概念ではない。下記参照のこと

人間は神の精神を表現している。それは人間が自然に抗い、生き延びる努力として示される。精神は自己の「有」に固執する。これが自己保存の努力であり、人間の本質にほかならない。
…すべての事物は常に変化しておリ定まるところがない。しかし事物は、変化すると同時に、変化のなかで自己の存在を維持している。この「同一性維持の傾向」が本質となる。

ここまでスピノザが書いているのに、「暗闇の牛」あつかいするのはまったくフェアーでない。

ただヘーゲルの「精神」はもう少し万物の始源に関わっているのかもしれない。すなわち事物に命を吹き込み、それらを動かすに至ったものはなにか? という問題だ。
これは哲学というよりはむしろ現代自然科学の専門とする分野である。そしてすでに解答は示されている。すなわち万物の根源にあるのはビッグ・バンによって作られた巨大なエネルギーだ。このエネルギーがあるときは事物の形を取り、あるときはさまざまな力となって身の回りに存在し、ネットワークを形成しているのだ。
エネルギーは加速度、すなわち速度の変化を通じて万物を貫く。そういう時間軸のゆらぎが世界中には満ち溢れている。これが「神」だと思う。

そんなことを突き詰めていくと、いわば「精神現象学は逆立ちしたスピノザ主義」とも考えられる。そうすれば、自己意識から絶対知へと登っていく骨組みが見えてくるのかもしれない。