スピノザ 年譜

1632年11月24日 バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza)、アムステルダムに富裕な貿易商の子として生まれる。

父親はポルトガルを逐われてオランダに住み着いたユダヤ人。スピノザも母語はポルトガル語だった。

ユダヤ人学校でヘブライ語を学び、旧約聖書を研究する。著作はラテン語によるがこれも独学だった。

1656年7月(23歳) アムステルダムのユダヤ人共同体から異端として破門される。

追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたと言われる。

1662年 ボイルと硝石に関して論争した。

1662年 エチカの執筆を開始(30歳)。

1663年 最初の著作『デカルトの哲学原理』が出版される。

スピノザは「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」を、「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈した。

1664年 オランダ共和派のヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。デ・ウィットはオランダの事実上の政治指導者(ホラント州法律顧問)であった。

1670年 匿名で版元も偽って『神学・政治論』を出版した。

超越した存在者を一切認めないと表明。国家の目的は個人の自由にあると主張する。

未完の「国家論」では、国家は専制政治を避け、国民の平和と自由を保持しなければならないとし、そのための方策を論じている。

1672年 盟友ウィット、対英仏戦争で民衆の怒りを買い虐殺される。スピノザの身辺も怪しくなる。

1673年 ハイデルベルク大学教授に招聘されるも辞退。

1674年 『神学・政治論』が禁書となる。

1675年 執筆に15年の歳月をかけた『エチカ-幾何学的秩序によって証明された』が完成。弾圧の恐れから出版を断念。

1676年 ライプニッツの訪問を受けたが、共感するに至らず。

1677年2月21日 スピノザ、肺病のため療養先で死去〈44歳〉。遺骨はその後廃棄され墓は失われる。

1677年 「エチカ」が友人の手により刊行された。