シュンペーターの生涯

1883年2月8日 モラビアのトリーシュという小さな町に,織物工場主の子として生まれた。

1887年,父が死去する。

1893年 母ヨハンナが退役将軍のフォン・ケラーと再婚する。シュンペーターは,ウィーンの貴族の子弟向け教育機関にはいる。

1901年 ウィーン大学法学部に入学する。ベーム・バヴェルクの講座に入る。学友にバウアー,ヒルファーディング,レーデラー,ミーゼスら。

1911年  グラーツ大学教授に任命される。

1912年 『経済発展の理論』を出版。5項目の“イノベーション”を提起。①新商品②新工法③組織改造④新市場⑤新仕入先。
金融資本のイニシアチブを重視する点でヒルファーディングと比肩される。

1913年 アメリカのコロンビア大学に交換教授として滞在。米国経済学者と交流。

1919年3月 オーストリアに社会主義政権が成立。学友バウアーの推薦により財務大臣に就任する。財産課税の導入,通貨価値の安定,間接税の導入を柱とする財政計画を献案するも6ヶ月で政権崩壊。

1921年 グラーツ大学教授を辞任し、ビーダーマン銀行の頭取に就任する。

1924年 株式市場の崩壊により銀行経営が破綻。シュンペーターは頭取を辞す。

1925年 ボン大学の財政学講座の教授に就任。ドイツに移住する。
1926年 『経済発展の理論』第2版を出版する。「企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究」という副題を付す。

1927年 ハーバード大学の客員教授となる。

1931年 初来日し、各地で講演。

1932年 ボン大学教授を辞任しハーバード大学教授に就任する。このとき51歳。
主な学生・院生にポール・スウィージー、サミュエルソン、ガルブレイス、トービン、ソロー(芝田敬、ランゲらはゲスト学者として位置づけられる)。

1934年 ハーバード大学の7人の経済学者がニューディール政策への批判を発表。シュンペーターは「不況(リセッション)は必然で、イノベーションが模倣を呼び、超過利潤がなくなって不況にいたる調整過程にすぎない」と主張する。

1936年 ケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』を発表。不況を高い失業率で均衡している状況ととらえ、有効需要の喚起によって解決しようとする。これを契機にして、サミュエルソンら弟子の多くがケインズ派に移行。

1937年 『経済発展の理論』が邦訳出版される。序文では「マルクスは資本主義発展が資本主義社会の基礎を破壊すると主張する限りにおいて正しい」と述べる。

1939年 『景気循環の理論』発表。「企業者のイノベーション」が初めて取り上げられる。

1940年 計量経済学会会長に就任(1年で退任)

1942年 『資本主義・社会主義・民主主義』を出版する。資本主義は、成功ゆえに巨大企業を生み出し、それが官僚的になって活力を失い、社会主義へ移行していくという主張を展開。ベストセラーとなり、「創造的破壊」が流行語となる。

1948年 米国経済学会会長となる

1949年 国際経済学連合会長に選出

1950年1月8日 シュンペーター、脳出血のため死去。享年66歳。

1954年 夫人の編集による『経済分析の歴史』が発行される。