沖縄人の起源については、遺伝子学的には紛れが少ない。おそらく縄文人が九州から島伝いに南下したものと見てよい。
その後さらにかなりの弥生人も後着しているが、その割合は内地に比べ低く、結果として縄文の血統を濃く残している。
これは埴原の二重構造モデル=沖縄人南方由来説とは一番異なる部分であるが、意外にも反論は少ない。
したがって、主要な問題はそれがいつのことなのかということになる。

本日の赤旗には、沖縄で長年人骨研究に携わってきた土井直美さんのインタビューが掲載されていて面白い。

話はかなり長いのだが、端折ると、浦添にある13世紀後半の王墓を発掘したところ100体以上の人骨が見つかったというもの。
以下記事の引用。
一つの橈骨を来る日も来る日もつなぎ合わせる作業を続けた結果、びっくりする顔付きが浮かび上がってきました。
歯が前に突き出して、突顎(とつがく)という顔付きです。本土では鎌倉時代から室町時代に良く見られますが、沖縄では初めて見る顔付きでした。
沖縄では11世紀まで縄文式の生活様式が続いていたが、その後突然石垣を築いて作った巨大な城が出現する。
今回の人骨研究で明らかになったのは、この頃にヤマト人が突然やってきてこの地を占領し、支配したということである。

このことからわかるのは、東北のエミシと同じようにヤマト人の攻撃を受け、同化を余儀なくされた沖縄の歴史である。そして混血種としての沖縄人が形成されたのは11~13世紀のことではないかということである。
ただし遠隔の地のために、DNAの変化を受けるには至らず、縄文風を引き続き残したということになろう。

もう一つこの記事で触れられているのは、沖縄とアイヌの古人骨の比較で、札幌医大との共同研究で、以下のことが明らかになっている。
沖縄の古人骨の顔立ちはアイヌに比べ平坦で、必ずしもよく似ているとは言えません。
というもの。

こちらとしてはDNAが一致していれば見た目はどうでもいいみたいなものだが、昔風の人類学者にはそう言っては済ませられないものがあるようだ。

DNA的に言えば、両者とも縄文人を基盤としていて、片方はこれに4分の1のオホーツク系、若干の弥生系をこんじているが、沖縄系はおそらく4分の1程度の弥生系を混じた構成なのだろうと思う。
それが人相という表現型でどう示されるかということではないか。