「日本人の源流をさぐるーー核DNA解析で見えてきた由来」 斎藤成也(遺伝学研究所教授)

斎藤さんは我が国における核DNA解析の第一人者らしい。肩書きも申し分ない、気鋭の若手学者である。ただその記載には、時に首を傾げる場面がある。以下の部分がそれに当たる。

まずはリード部分のあらすじ
日本人の源流について「二重構造モデル」をさらに発展させる必要がでてきた。
これまで弥生時代以降、渡来人はすくなくとも2種類だったらしいことが、わかりつつある。
この異なり方はとても小さいので、これまでは見つけることができなかった。
九州・四国・本州のヤマト人に「内なる二重構造」が存在しているようなのだ。
そこで登場したのが、三段階渡来モデルだ。弥生時代以降の渡来が、時代も人々の由来も、ふたつにわかれていたとするものだ。
まだ時代も由来もはっきりしないが、弥生時代に水田稲作農耕を日本列島に伝えた人々と、その
あとの古墳時代以降に大陸から渡来した人々が少し異なっていたのかもしれない。
ここまでは言うことはない。なにか新しい発見があったのかと胸躍らせるものがある。

次に引用するのは、縄文人の身体・DNAのヒミツ.  Discovery Japan 9
という文章から日本人の核DNA分岐図の説明
①さまざまなルートでやってきた第一波の渡来民が、海で遮られた後、日本列島に残留。彼らが縄文人と総称される。
②4千~3千年前 縄文後期~弥生早期に朝鮮半島や遼東半島など沿岸域に暮らしていた“海の民”と縄文時代が交流。現ヤマト人の祖先が誕生した。
③第3の渡来民は最後にやってきて水田耕作をもたらした。彼らは沖縄の縄文人と交流し、北海道ではオホーツク人と混血し、アイヌ人となった。
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図は悪くないが、説明はおよそひどい。粗悪品だ。核DNAに先行する基礎的な研究をおよそ理解していないと言わざるを得ない。

もし細かくいうのなら、渡来してきたのは二波どころではない。Y染色体ハプロだけ見ても、少なくとも5波ある。現日本人にはつながっていないと思われる港川人など沖縄の旧石器人を除いての話だ。
何度も繰り返すが、明らかにしておきたい。

Y染色体ハプロによる人類の展開史
① 2つの旧石器人→縄文人
「第一波の渡来民」という表現は先行者のいない無人の野に入ってきた人々に使うのはふさわしくないが、とりあえず斎藤さんに従う。
ホモ・サピエンスは発祥の地東アフリカで、少なくとも4つのハプログループ(A,B,C,D)に分かれている。これが6万年前の話。この内AとBはアフリカに残り、CとDがアデンからオマーンへと向かった。
ただしこれらのハプロは、現生人類へとつながっているサピエンスのハプロであり、それより数万年前に人類は出アフリカを果たしている。それらの祖先は現世人に遺伝子を残すことなく絶滅した。
この内、もっとも古い「C系アダムの長男」にあたるのが日本に分布するC1a1である。最も近縁のC1a2(先ヨーロッパ人)との共通祖先は4、5万年前とされる。日本列島ではおおむね5%の頻度だが他には集団形成はなく、済州島とソウル、南満で孤発例が報告されている。おそらくかつては広範囲に生息していたのが押しやられ絶滅したのであろう。
これが4万年ほど前にナウマンゾウを追って朝鮮から日本に入った最初のサピエンスであろう。ただし先程も述べたとおり、その前に入ってきて絶滅したグループがいた可能性は、論理的には否定できない。(崎谷のC1a2論は矛盾が多い)
C1a1人を最初の旧石器人とすれば、第2波となるのが D1b 人だ。かれらがどうやってアジアに来たかはアジアそのものに痕跡がないので想像しようがない。ただ日本に来た時期と経由地ははっきりしていて、2万年前に北海道に姿を現したのが最初だ。彼らの最初の痕跡は黒曜石の採掘現場で、その持続期間はなんと1万年にもわたる。
かれらはマンモスハンターとしてやってきたが、やがて本州(マンモスもナウマン象もいない)にも渡り、全土に分布することになった。
この2つの人種が北韓道から沖縄まで広く分布し、やがて縄文人となっていく。
斎藤さんは、「朝鮮半島や千島列島、台湾や樺太島」などと書かれているが、朝鮮と樺太以外のエビデンスはない。
琉球列島に台湾方面から港川人などが入ってきたことは間違いないが、それは絶滅しており現代日本人にはつながっていない。
千島からの流入はもっと遅く、縄文時代に道東地方にわずかに入ってきた可能性がある。それはアイヌ人ミトコンドリアDNAにかすかに伺われる。
結論を言おう。
縄文人の主たる祖先は4万年前に朝鮮半島からナウマンゾウを追ってきた人々が4分の1,3万年前にシベリアからマンモスを追って北海道に入り、その後全国に分布した人々が4分の3の割で混血したものである。

② 縄文晩期人
これはいわゆる「縄文晩期人」を指すのだろうと思う。
「弥生時代以降、渡来人はすくなくとも2種類だった」というのがこのことだとすると、やや納得がいかない。縄文晩期人は考古学的には渡来人に先立つ存在が確認されているからだ。
縄文晩期人はDNA的には第三の縄文人だろうと思われる。北方由来の縄文人にとって西南日本はそれほど居心地の良いところではない。落葉樹がないから木の実がなく、したがって獣もあまりいない。そこで暮らすためには漁労が必須だったのだろうと思う。彼らが海洋の民になったとしても不思議ではない。
C2a 系という日本固有のハプロがあるが、日本国内での分布がばらついていて、今のところよくわからないので保留しておく。
そもそもは九州北部の縄文人が朝鮮半島にわたり交通したのではないかと、私個人としては想像している。
縄文晩期人が水先案内人となって半島南部の米作民(長江人)を渡来させたのは、ほぼ定説となっている。そんなことも念頭に置きながら、結果の解釈を行うべきであろう。

③ 弥生人
ということで、②を縄文晩期人とすると③は弥生人ということになってしまう。そうすると、図の説明をそのまま受け止めるならば、稲作をもたらした弥生人は「北方東アジア人」という、まことに不都合なことになってしまう。
これは今日の古代史の常識と真っ向から対立する見解である。稲作を持ち込んだ弥生人は直接には朝鮮半島南部の住民であるが、もともとの出自は長江流域であり、おそらくは山東半島から黄海をわたって朝鮮半島に達した長江人(長江文明の担い手の末裔)である。

④ 北方東アジア人(天孫族あるいは騎馬民族)
はこの図にはないが、まさしく「北方東アジア人」の渡来があったはずである。彼らはもともと遼東半島付近に住んでいた漢民族の近縁種族であり、それが徐々に南に押し出され、最後にその一部が朝鮮海峡をわたって日本にやってきたのである。

ということで、斎藤成也さんはどのくらいの思いで決意して、この記事を書いたのか知らないが、このままでは我々のような、年金研究者の袋だたきに会うことになるだろう。