昨日は共産党の旗開きに参加した。12年に1回、一斉地方選挙と参議院選挙が重なる年で、大変なようだ。

それで今日は1日遅れで赤旗に載った、志位さんの新年挨拶を読んでいる。

新聞のいいところは、見開きにして机いっぱいに広げて、眺めながら、赤線を引いていくところにある。

ふと気がついたのだが、「民主」という言葉がえらく少ない。意識的に減らしているのかな。

民医連運動華やかなりし頃は、「民主」の花盛りで、なんでも「民主」の冠詞をつけるのがお決まりだった。

日本共産党ではなく、「日本民主党」と呼んだほうがいいのではないかと思うほどだった。

それが今回の「あいさつ」では、数えてみたら僅かに5ヶ所。しかもそのうちの一つは経団連会長の記者会見からの引用である。

まさに様変わりだ。

一応すべて引用しておきたい。

あいさつは全体として三部に分かれている。

第一部は「沖縄と憲法――二つの大きな成果を確信に、“安倍政治サヨナラ”の年に」と題され、全体として2018年の運動の成果を確認する部分だ。
ここでは2ヶ所で「民主主義」の言葉が出てくる。

一つは森友問題に関する言及で
森友「公文書」の改ざんは、国会と国民を欺き、歴史を冒涜(ぼうとく)し、民主主義の根幹を破壊する未曽有の大事件でした。
ここでの「民主主義の根幹」は、議会制民主主義の崩壊を非難する斬口として用いられている。

もう一つはそこから2段落うしろ、強権とウソの政治を非難したあとに
安倍政権に日本の民主主義をこれ以上破壊させるわけには断じていきません。
という使い方をされていて、議会制民主主義よりはもう少し広く、いわば国体存立の精神というか、政治上のモラルをさした使い方となっている。

第一部はこれだけだ。

第二部は、「2019年、何を掲げてたたかうか――四つの課題を一貫して追求しよう」と題され、今年の課題が示されている。

4つの課題とは
1.消費税増税を中止し、暮らし第一で経済をたてなおす
2.大軍拡、9条改憲に反対するたたかい
3.沖縄への連帯のたたかい
4.原発ゼロの日本を目指すたたかい
であるが、民主が出てくるのは沖縄の課題の部分のみである。

一つは辺野古の土砂投入強行に関する記述で、
法治主義も、民主主義も、地方自治も踏みつけにしたこの無法な暴挙を転機に、沖縄県民の怒りが、あふれるように全国に広がり、世界に広がっています。
というもの。

一昔前なら、確実に、法治主義も地方自治も「民主主義」に突っ込んでいた。
非常に民主主義の使い方が限定的で、“丁寧”になっていることがわかる。

ただここまで限定すると、逆にどういう使用法なのか判断がむずかしい。おそらく国法の原論的支柱の一つという扱いなのだろう。
それは主権在民の原則ということに帰結するのだろうか。

第5の「民主」は、非常に注目される。それは志位さんではなく経団連会長の発した言葉だ。
しかも「民主主義」の本質を強烈にえぐっている。

この言葉は原発廃止の課題に出てくる。
官民あげての「原発輸出」が失敗し、計画を手掛ける日立製作所の中西宏明会長が「もう限界だ」とのべた。
さらに中西氏は経団連の会長として、記者会見の席上で以下のように発言した。
全員が反対するものをエネルギー業者や提供企業が無理やりつくるということは、この民主国家ではない。
志位さんによれば、この発言は「原発を存続させるためには国民的議論が必要との認識を示した」ものだと理解される。

実にバブル期以来久しぶりに、日本のものづくり産業本来の、まっとうな意見を聞いた気がする。

ここでの「この民主国家」という言葉は、日本の国体原理としての「民主主義」に対する揺るぎない確信であるとともに、日本国民の民主国家を統治する能力に対する深い信頼でもある。

1951年、マッカーサーは「民主主義において、日本は、まだ12歳の少年だ」と言った。それから70年を経て、我々は成熟し得たと胸を張ってもいいのではないか。
だから、「民主、民主」と叫ぶのではなく、社会に定着した「政治風土」として民主主義を語ってよいのかもしれない。平成天皇を見ていて、まことにそのような実感を抱かされる。

では「民主主義」は政治・経済・社会・文化システムの中にどう整序されるのであろうか。安倍晋三らはどのようにこの民主主義を掘り崩そうとしているのであろうか。
この点について、今年はおいおい考えていきたいと思う。