重商主義から重農主義へ

ケネーを中心とする年表

1628年 ウィリアム・ハーヴェイ、血液の体系的循環を発見。それまで、血液は心臓から消費器官までの一方的な流れと考えられえていた。

体液の循環説は、経済が再生産を通じて循環しているというケネーの発想を生んだ。

1694年6月4日  フランソワ・ケネー(François Quesnay)が生まれる。

1700年ころ ルイ14世の絶対王政のもとで、コルベールによって重商主義政策が推し進められる。

1718年 病院での修行の末、外科医を開業。

1737年 外科アカデミーの終身事務局長に任命される。(43歳)

1744年 薬学博士の免状を得て、国王の常勤内科医となる。

1749年 ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の侍医となり、ヴェルサイユ宮殿で働く。宮殿の「中2階」に居住し、そこは革新的な科学者,思想家たちの集まる場となった。

1750年ころ フランスの国家財政が破綻に直面する。
重商主義は貨幣を富の形態として考えていた。商品は富の原資だが富そのものとは考えられていなかった。そのため、貨幣を稼ぐことを唯一の目的とする保護貿易に終始した。このため貿易はゆがみ、国内産業は弱体化し、生産は伸び悩んだ。

1750年ころ ケネーは重商主義批判の立場から、経済学の勉強を始める。(56歳)

ケネーは血液循環と同じように富という血液が心臓から送り出され、また戻ってくるという循環を繰り返すと考えた。そして農業こそが心臓にあたると考えた。

1756年 『百科全書』第6巻に「明証性」と「定額小作農」の2つの記事を執筆。

1758年 ケネー、『経済表』(Tableau économique)を出版。(63歳)

コルベールの重商主義を過度の統制として批判。農業生産を基本とした自由な貿易によって経済を発展させる方針を提起した。自由放任主義・重農主義と呼ばれる。
その際に論証の材料として再生産表を発表した。これは社会を生産階級(農民),地主・支配階級,不生産階級(商工業者)にわけ、階級間の取引を分析することで生産と取得の循環を解明しようとするもの。 

1760年代 重農主義思想に影響されて、「穀物取引の自由」や「土地囲い込み」をもとめる運動が盛り上がる。
この運動は富農、産業資本家の経済的自由を後押ししたが、いっぽうで農民層の没落ももたらした。

1765年 アダム・スミス、パリに1年間滞在する。ケネーや信奉者と面識を持つ。

1774年12月16日 フランソワ・ケネーが亡くなる。80歳。

1774年 「財務総監」のテュルゴーが重農主義に基づくプログラムに着手。貴族たちの抵抗で混乱。

1776年 アダム・スミス、国富論を発表。

「経済表は、文字と貨幣と並んで、国家社会の安定に最も寄与した3つの偉大な発明品の1つである」と紹介

蓄積資本の概念,固定資本と運転資本との区別などもケネーの学問的功績とされる。

1776年 テュルゴー、農村の賦役と都市のギルドを撤廃するよう提案。国王はテュルゴーを解任。



ケネーの言葉(ケネー『経済表』より)

土地が富の唯一の源泉である。そして富を増殖させるのは農業である。そこにこそ、王国の行政の成功が依存している。
主権者と国民は、このことをけっして忘れてはいけない。

農業の振興は富の増加をもたらす。そして人口の増加を保証する。
人間と富が増加すれば、農業は繁栄し、交易は拡張し、工業は活気づく。
それは富の増加を永続させるのである。