「富の源泉」を考えるきっかけ
はるか昔のことだが、高校3年生の世界史の授業で、ケネーの農業表というのを習って感心したことを覚えている。
「おお、世界の富というのはこういうふうに作られるのだ」
ところが、次にアダム・スミスの講義になると、すべての富は労働によって作られるのだというふうに発展される。
これも「なるほど、たしかにそうだ」と思ったが、なんとなく眉唾の感じもあった。
農業は春に種をまくと、秋には麦粒が撒いた量の100倍になった戻ってくる。そこにはたしかに富が増えたという実感がある。
ところが工業というのはたしかに形を変えたりして使い勝手は良くするが、原料(元の富)そのものの量が増えたわけではないよね、というトゲが残るのである。
スミスはケネーの弟子筋に当たるようだが、ケネーがこれを聞いたらどう思うだろうかというのが気になる。
別に封建時代の人間ではないのだが、昔からある士農工商という身分制度が気になって、やはり農業が富の根本で、工は補助的な役割で、商は稼ぎもしないで人を騙して暮らしているみたいな気分があったのかもしれない。

剰余価値説はまずもって労働価値説だ

農業以外は価値創造を認めない人というのがいて、これには二通りあって、一つは神様以外に価値の創造者を認めないというウルトラの人たちだ。価値と人間が呼んでいるものは、人間の欲望が「価値」として結実した幻想に過ぎないことになる。
これはたしかに一理あって、富といえば金銀財宝を思い浮かべる人に対して、そんなものは社会が生み出した幻想なのだ、というのは正論である。

もう一つが、農業は神の恵みを価値に転化できるから富の源泉として認めてもよいが、それ以外は手慰みであって価値を創造しているわけではないというのだ。
しかし職人たちの仕事は明らかに価値を創造している。機を織ったり毛皮を鞣したりするのは、ほとんど農業の延長だ。もし農業が富の源泉であるなら、生活必需品に関する生産労働も同じではないかということになる。

価値とは使用価値であり、労働とはモノづくり労働だ

使用価値でない価値はありえない。剰余価値はモノづくり労働で初めて生まれる。

剰余価値を労働価値説の流れで把握するというのは、労働イコール物質的生産活動と定義することだ。ここを外して階級関係の中でのみ捉えると、話がとたんに見えなくなる。

労働の過程で付加された使用価値、これが剰余価値の原型となる。
これは資本主義的生産システムの中で、引き算として示されるようになる。なぜなら労働力もが商品化されるからだ。そういう“擬制”のなかで示された労働価値なのだ。

物質的生産労働以外の労働は別個に検討されるべきだ

剰余価値概念への批判は、物質的労働以外の労働をもふくませることから生じる。今日ではそういう労働のほうがはるかに多くなっている。
非物質的労働の範囲は運輸・建設などから始まって商業・金融まで広がっている。さらに教育・医療・福祉など以前は専門職とされた分野までもふくまれ、現実の労働運動の主人公となりつつある。

これらの分野における剰余価値→搾取の問題は別個に論じるべきだと思う。