朝鮮人徴用工問題について

私は北海道勤医協の当別診療所に勤務していたときに劉連仁さん(中国人連行労働者)の記念碑を建てる運動に関わったことがある。
そのときに中国人労働者の実情が、朝鮮人労働者の強制連行とは著しく様相を異にしており、決して一緒に論じてはならないと肝に銘じた記憶がある。
そのうえで、朝鮮人労働者の強制連行をタコ部屋労働につながる非人道的労働として糾弾し、今日の外国人労働者の扱いにもつながっていくものとして警鐘を乱打し、「日韓条約」に解消しえない人道犯罪=悪質労働事犯として糾弾すべきものと考えている。

しかもこれが一般的労働事犯ではなく、国家権力が直接関わる「国家的労働事犯」であることを念頭に置くべきだと考える。

以上の前提に立って、少し事実関係を洗い出しておく。



連行労働者の数

戦争中に海をこえて日本に連行され強制労働させられた朝鮮人は約100万人と想定される。

彼らの多くは最初は「労務動員計画」によって「募集」の形式で連行された。やがて戦況悪化に伴い「労務動員計画」は「国民動員計画」となり、「官斡旋」の割当で動員された。
そして最後は徴用令を直接適用して、強権的に日本に連行された。

総数は政府統計で確認されたものが72万4800人いた。これは1939年から終戦までの総計である。そのうち終戦時現在数が36万5400人である。

さらに軍人・軍属として国内各地に連行されたものが明らかな数だけで36万4200人いた。

また朝鮮内で動員されたものは400万人を越えていた。

強制連行され死亡した労働者の数

日本に強制連行された朝鮮人労働者のうち死亡または行方不明の数は6万人。これに軍人・軍属の15万人を加えると20万人以上となる。

強制連行された労働者の労働条件

土建関係、製鋼所でももっともひどい現場が朝鮮人に割り当てられた。かれらの労働条件・生活状態は、奴隷労働と呼ぶにふさわしく、まったく残虐・劣悪を極めたものであった。

朝鮮人労働者の半数近くは、石炭鉱山に配置された。終戦直前には炭鉱労働者総数の3分の1が朝鮮人であった。

宿舎は日本人と区別され、厳重な囲いをつくり、相互のゆききは禁止された。労働時間も長く、平均日収も日本人労働者の半額ていどにすぎなかった。食物も日本人労働者よりずっと悪いものを食べさせられた。
鉱山の運用規則には下記のごとく記された。
病院と連絡し、仮病による欠稼防止、守衛巡回による出勤督励、警察署との協力による逃亡防止に益々意を用うること。集団的不穏行動に備えて部隊組織となすこと…
朝鮮人労働者の反抗
39年から終戦までの6年間で、連行された朝鮮人のうち22万人が逃亡した。朝鮮人労働者の「逃亡の主なる原因は食糧不足、坑内作業の忌避と外部よりの誘惑」であった。

最初の3年間では炭鉱に連行されたもののうち36%が逃亡し、労働者の半数が失われた。
つかまればそれにたいする虐待はひどく、拷問にたえず自殺したり死亡したものも少なくなかった。

中国人に対する虐待はこのような程度ではなく。明らかに最終的には死なせることを前提したものであった。