2018年03月04日  シェリング 年譜 を増補した。

ついでに「弁証法的実在論者」としてのシェリングについての感想

カントからヘーゲルというのがドイツ古典哲学の流れで、フィヒテとシェリングは刺身のツマ扱いになっている。とりわけシェリングの役割はほとんど扱われない。

そもそもシェリングはプレ・ヘーゲルなのだろうか。彼は早熟であったためにフィヒテの後継として登場しているが、実際にはヘーゲルとは年下の同級生の関係にある。

二人とヘルダーリンは1790年代末には共同の理論構築作業を行っていた。ヘーゲルのとりわけ初期著作には、一歩を先行していたシェリングの論及がかなり影響を及ぼしている。

物自体と自我

フィヒテによれば、自然を認識するためには、自我という人間精神が前提となる。
フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。

物自体へのアプローチは可能だ

なぜフィヒテが哲学を認識論として提起したか。それはカントが、物自体を認識不可能なのものと裁断したからである。
カントは人間の認識能力の限界を示して、物自体を認識不可能なのものとし、現象界と叡智界とを厳然と区別した。
だからカントのしもべたるフィヒテの出発点となる問題意識は、物自体の壁を押し広げ、叡智界を拡大することにあった。それはカントが密かに企んでいたことでもあっただろう。

自然はたんなる対象ではない

シェリングの論理も、出発点においてはフィヒテと同じく自我と考えられる。しかし彼はライプツィヒで自然哲学を学んできたために、自然をたんなる認識の対象(非我)としては捉えなくなっている。
非我にも駆動力はあるということだ。「非我も自我の芽を内包している」ということになる。

フィヒテは自然を、意識から「排除すべきもの」と考えていた。シェリングはそれを精神と同一の「実在の原理」において把握しようとした。

勢いの赴くところ、シェリングは絶対我の代わりに自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」を想定した。彼はこれを「同一哲学」と名づけた。ほぼヘーゲルだ。
「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」

それでは、自然と精神とのこの相互転換はどのようにして起こるのか。自然はどのように知として意識に取り込まれるか、自然が精神として内実化される過程はいかなるものか。

「同一」は無様だが「絶対精神」よりはるかに良い

世界を統一的な視点から説明するという問題意識は、ヘーゲルの精神現象学に連なる。ヘーゲルは絶対我の代わりに「絶対精神」の諸事象への展開として考察する。

認識論の動画を逆回しすれば現象論になるというのがシェリングが提示しヘーゲルが引き継いだ論理である。
それは世界を観念の世界から逆立ちして描き出すことになる。
しかしそれは静止画ではなく動画である。その故に機械的唯物論よりはるかにリアルである。

まだ語るべきほどのものを持ち合わせていないが、シェリングの自然哲学の弁証法的な優位性は注目すべきものがあり、誰かエンゲルスの自然弁証法と突き合わせながら展開してくれるのを待ちたい。