下記も同じく1993年の読書ノートで、ヘーゲルの「法の哲学」からの抜書きである。
労働と欲求の関係が見事に描かれており、労働が「陶冶」という観点からも性格づけされている。
これがおそらく「要綱マルクス」のバックボーンだろうと思う。
今回、「資本論形成史」をまとめてみてわかったのだが、「要綱マルクス」から「資本論マルクス」への変貌は、国際労働者協会との関わりが大きいのではないかと思う。
「経済学批判」ではなく、ある種「組合員学校教科書」的な方向への転化が図られたのではないか。経済の仕組みを解き明かすと同時に、それが労働者にとって持つ意味を考えさせるようなニュアンス、まさに「賃金・価格・利潤」的な方向が目指される。
したがって歴史貫通的な人類共通的な課題、哲学的なテーマはとりあえず控えることになった。だから我々はそこのところを補いながら読み込んでいかなければならないのだと思う。
とくに「未来社会論」を語るときに、この発想は必須のものだと思う。

法の哲学 S187

陶冶としての教養とは,その絶対的規定においては解放であり,より高い解放のための労働である.すなわちそれは,倫理のもはや直接的でも自然的でもなくて精神的であるとともに普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へ到達するための,絶対的な通過点なのである.

この解放は,個々の主体においては,動作のたんなる主観性や欲望の直接性だけではなく,感情の主観的なうぬぼれや個人的意向のきまぐれをも克服しようとする厳しい労働である.解放がこのような厳しい労働であるということこそ,それが嫌われる理由の一部である.しかし陶冶としての教養のこの労働によってこそ,主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得するのであって,この客観性においてのみ,主観的意志はそれなりに理念の現実性たるに値し,理念の現実性たりうるのである.また特殊性は,労働と陶冶によっておのれを作りあげ高め上げて,この普遍性の形式,すなわち悟性的分別を手に入れてしまうからこそ,同時に個別性の真実の対自存在になるのであり,また普遍性を満たす内容とおのれの無限な自己規定とを普遍的にあたえることによって,それ自身が倫理のうちに,無限に対自的に存在する自由な主体性として存在することになるのである.

S189 欲求の体系

特殊性はまず,総じて意志の普遍的な面に対して規定されたものとして,主観的欲求である.この主観的欲求がそれの客体性すなわち満足に達するのは
(α)いまや同じくまた,他の人々の欲求と意志の所有であり産物であるところの外物という手段によってであり,

(β)欲求と満足を媒介するものとしての活動と労働によってである.

食べること,飲むこと,着ることなどのような,一般的欲求とでも呼ぶべきものがある.恣意のこうしたしゅん動は,それ自身のなかから普遍的な諸規定を生みだすのであって,この一見ばらばらで無思想的に見えるものが,おのずから生じる一個の必然性によって支えられるのである.個々での必然的なものを発見することが国家経済学の目的であって,国家経済学は,大量の偶然事に関してもろもろの法則を見出すのである.この関係は一種太陽系にも似たものである.太陽系はいつも肉眼には不規則な運動しかしめさないが,しかしそれのもろもろの法則は,それでもやはり認識されうるのである.

S190 欲求の仕方と満足の仕方

動物の欲求は制限されており,それを満足させる手段および方法の範囲も同様に制限されている.人間もまたこうした依存状態にあるが,それと同時に人間はこの依存状態を越えていくことを実証し,そしておのれの普遍性を実証する.人間がこれを実証するのは,第一には,欲求と手段とを多様化することによってであり,第二には,具体的欲求を個々の部分と側面とに分割すること(労働の分割),および区別すること(社会的分業)によってである.そしてこれらの部分と側面とは,種々の特殊化された,したがってより抽象的な欲求となる.この欲求の立場では,主題は人間とよばれるところの,表象にとっての具体的存在者である.それゆえここではじめて,そしてまた本来ここでのみ,この意味での人間が問題になる.

S192

欲求と手段とは,実在的現存在としては他人に対する存在となる.欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており,この制約は自他において相互的であるからである.欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた,諸個人のあいだの相互関係の一規定にもなる.承認されているという意味でのこの普遍性が,個別化され抽象化された欲求と満足の方法を,社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである.

私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり,したがって他人の意見にしたがわざるをえない.しかし同時に私は,他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない.だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり,他人とつながりあっているのであって,そのかぎりにおいて,すべて個人的に特殊なものが社会的なものになるのである.

S196 労働の仕方

もろもろの特殊化された欲求を満たすのに適した,同じく特殊化された手段を作成し獲得する媒介作用が労働である.労働は自然によって直接に提供された材料を,これらの多様な目的のために,きわめて多種多様な過程を通して種別化する.だからこの形成は,手段に価値と合目的性をあたえるのであって,その結果,人間が消費においてかかわるのは主に人間の生産物であり,人間が消費においてかかわるのはこうした努力の産物である.

S197

労働によって得られる実践的教養とは,あらたな欲求の産出と仕事一般の習慣,さらにはおのれの行動を,ひとつには材料の本性にしたがって,またひとつにはとくに他人の恣意にしたがって制御することの習慣であり,またこうした訓練によって身についた客観的活動とどこでも通用する技能との習慣である.

S198

ところで労働における普遍的で客観的な面は,それが抽象化していくことにある.この抽象化は手段と欲求との種別化を引き起こすとともに,生産をも同じく種別化して,労働の分割を生み出す.個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり,単純になることによって個々人の抽象的労働における技能もいっそう増大する.

同時に技能と手段とのこの抽象化は,他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し,これらの関係をまったくの必然性にする.生産活動の抽象化は,労働活動をさらにますます機械的にし,こうしてついに人間を労働活動から解放して機械をして人間の代わりをさせることを可能にする.

S199 資産(VERMOGEN)

万人の依存関係という全面的からみあいのなかに存するこの必然性がいまや,各人にとって普遍的で持続的な資産(VERMOGEN)なのであり.

下の二つは「美学」の抜書きである。

ヘーゲル美学講義 Ⅰ-51

人間はこの自分についての意識を二つのやり方で手に入れる.すなわち理論的には,人間は自分自身を人間の内面において意識する.…人間は実践的活動によって対自的となる.そして人間は外界の事物を変化させ,これに自分の内面の印章をおす.この欲求は芸術作品でみられるような外的な事物の中における自分自身の生産の仕方にいたるまで,ありとあらゆる形の現象にゆきわたっている.

ヘーゲル美学講義 Ⅱ-213

このような影の国がすなわちイデアールであって,そこにすがたを見せる精たちは,直接的存在には興味を失い,物質的生活の必要を免れ,有限の現象に必ずともなう環境への依存性や,あらゆるゆがみやひずみから解放されている.