「資本論」成立史 年表

1840年 イェーナ大学に『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』と題した学位論文を提出。

1843年10月 マルクス、パリに亡命。経済学の研究を開始。9冊の『パリ・ノート』として存在。「ミル評注」、「アダム・スミス」評注、「リカード評注」などをふくむ。

8月 「経済学・哲学草稿」を執筆。パリ・ノートの中でも、国民経済学の学習を基礎に、出版を意識して書かれた文章。

8月 パリでエンゲルスと同志関係に入る。最初の共著「聖家族」の執筆を開始。

1845年

2月 「聖家族」を出版。

2月 マルクス一家はパリを離れ、ブリュッセルに移る。滞在中に6冊の『ブリュッセル・ノート』を残す。

年末 マルクスとエンゲルス、青年ヘーゲル派の批判を受け、反論として「ドイツ・イデオロギー」を執筆。

1846年夏 「ドイツ・イデオロギー」を脱稿後、エンゲルスとともにマンチェスター滞在。この間図書館通いして「マンチェスター・ノート」5冊を作成。

1847年 『哲学の貧困』を刊行。

1847年 マルクスら、ロンドンで「共産主義者同盟」結成。

1848年

2月 「共産主義者同盟」の綱領として『共産党宣言』を発表。

4月 ドイツ3月革命を受けケルンに移住。『新ライン新聞-民主主義の機関紙』の発行。

1849年

2月 「新ライン新聞」に『賃労働と資本』を連載。

5月 「新ライン新聞」が発行停止となる。

8月 マルクスはロンドン亡命、たけのこ生活を送る。

1850年 ハンブルクで「新ライン新聞」の再刊を企てるも失敗。エンゲルスはマンチェスターで仕事をして、マルクスを支える。

50年9月 ロンドンで経済学研究を再開。53年までの4年間、経済学を中心に『ロンドン・ノート』24冊を書き上げる。

1851年 
1月に貴金属、貨幣、信用。2月には、ヒュームとロック。3月には、リカードとアダム・スミス。4月には再びリカード。5月にはケアリー、マルサス。6月には価値と富の経済学。7月には工場制度と農業収入。8月には人口、植民。秋には銀行業、農耕法、および技術学(マクレラン)

1856年 義母の死により相当額の遺産を獲得。生活が小康を得る。

1857年 

最初の世界恐慌が発生。マルクスはこれを「ブルジョア経済のあらゆる矛盾の現実的総括および暴力的調整」と見る。

7月 マルクス、「57年-58年草稿」の執筆を開始。 商品・貨幣を論じる最初の経済学論文となる。最初の7冊のノートが『経済学批判要綱』と呼ばれる。「経済学批判序説」がふくまれる。

1859年 『経済学批判、第一分冊』が刊行される。「序文」、「第1章 商品」、「第2章 貨幣または単純流通」からなる。最初に構想していたのは全6編であった。

1861年 ふたたび金繰りが悪化。ドイツのおじを金策に訪れる。

1861年 8月からあらたに23冊のノート「61年-63年草稿」が執筆される。最初は経済学批判の第1部第3章 資本一般から始まるが、途中でプランは変更される。

1862年12月28日 マルクス、手紙で「すでに書いたものを推敲・清書して『資本論 - 経済学批判』として刊行する」と明らかにする。

1963年

7月 マルクス、「61年-63年草稿」の執筆を完了。『資本論草稿集』の第4巻から第9巻に相当し、「剰余価値学説史」が主体を占める。

7月 『資本論』草稿の執筆開始。全4部(3部と学説史)構成に変更された。

8月 第1部執筆が完了。

63年 マルクスの実母が死去。遺産相続で小康を得る。

1964年

夏 第2部をスルーして、第3部
の執筆を開始。

9月 ロンドンで「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の設立が宣言された。マルクスが宣言を起草。

1965年

この年の前半 第3部第1稿の執筆を中断し、第2部第1草稿の執筆に取り掛かる。

引き続いて第3部第4章が執筆された。さらに第4章執筆の途中にプランの変更が
行われ,それは第4章(貨幣決済)と第5章(信用機能)に分割された(大谷)

この年の後半 第2部第3草稿執筆を完了。引き続き第3部の残りを執筆。

第4章の執筆途中で後半部分が独立した。前半は第4章(貨幣決済)に集中し、後半は第5章(信用機能)にあてられた(大谷)

マルクスは日中は大英博物館で抜粋を作成し、夜間は最後の地代論三章を執筆した。(結局地代論が最後となる)

12月 『資本論』草稿(学説史を除く)の執筆が完了。

1865年 「賃金鉄則」を批判した国際労働者協会中央評議会での講演、『賃金、価格および利潤』を出版。

1866 国際労働者協会第一回大会(ジュネーヴ)

1866年5月 ロンドンの大銀行の破産の破産をきっかけに恐慌が発生。金融恐慌の色彩を強く帯びる。

1866年 「第1巻」の最終稿執筆に着手。このときマルクスは、第1部と第2部を1冊の本に詰め込むつもりだった。

1866年 エンゲルス宛ての手紙。「原稿は、その現在の形では途方もないもので、…出版できるものではない」

1866年10月 「第1巻」を第1部に限定することとした。第2部は第2巻に回される。さらに第2部への移行部となる「第6章」も除外される。

1867年4月 資本論第1部の原稿がマイスナー書店に手渡される。発行は9月。

1867年7月 第2部第4草稿、第3部補足のための諸草稿に着手。この時点でマルクスは、数カ月のうちに第2巻(第二部と第三部)を刊行できると考えていた。

1868年

国際労働者協会のブリュッセル大会。マルクス主義者とブランキストが手を組み、プルードン主義者を圧倒。

エンゲルスがマルクスの負債をすべて精算する。

1868年12月初旬 第2部第2草稿の執筆を開始(第3,4草稿より後)。

1869年1月 第3部第1章の改訂版の執筆を開始。1871年8月より中断。

1870年

1870年半ば 第2部第2草稿の執筆がほぼ終了するが、印刷には回らなかった。

エンゲルス、マンチェスターからロンドン(マルクスの近所)に転居。

1871年 普仏戦争。フランスの敗戦とパリ・コミューン。マルクスは「フランスにおける内乱」を発表。

1872年 国際労働者協会のハーグ大会。バクーニン派の潜入・マヌーバー戦術によりずたずたになる。

1875年 『ゴータ綱領批判』。発表は1891年。

1875年 第3部第1章の改訂版の執筆を再開。何回か中断したあと、1876年2月以降は第3部には着手せず。

1877年3月末 第2部のための補筆・書き直しを開始。第5,6,7草稿が執筆される。

1880年末 第2部第8草稿の執筆が開始される。第3章の新たな書き直しを試みる。1881年に中断。これが最後となる。

1883年3月14日 マルクス死去