中期マルクスの二つの隘路

佐藤金三郎が内田弘の「要綱」研究にコメントした小文がある。(「中期マルクスとは何か」1987年)

内田の原文が難しいらしく、佐藤もそれにつられて読みにくいものになっている。
佐藤は内田の論文をまとめた上で、「内田は中期マルクスの業績として二つを見出したのではないか」と述べている。
それはマルクスがリカードから相対的剰余価値を学び、会得したということ、アリストテレスから自由時間概念を引き出したことである。
佐藤はどうも内田の見解に対して、とくに自由時間概念についてニュートラルなところがあるようだ。

これらは、研究の成果と言うより、研究の先に立ちはだかる二つの関門であり隘路だったのではないか。

以下は、私の考えるところだが、
相対的剰余価値論は、確かにマルクス経済学の核心を形成しているところであり、恐慌→窮乏化革命を乗り越えていく上での飛躍台になっている。
しかし後年、相対的価値論だけでは進まない問題、価格実現問題が出現するので、よりエレメンタリーな概念の析出が求められるのではないか。
自由時間概念については、これが労働力概念から導き出される関数に過ぎないのではないかという思いを捨て去ることができない。社会的にも、倫理的にも、自由な時間は決してブランクな時間ではない。それを生活過程論と欲望の創出過程論抜きに語っても意味がないと思う。