継体天皇は混乱の入り口か出口か

1.継体天皇崩御の謎

百済本紀の勉強をしていて、ウィキの別項目が心惹かれた。

記事の名は「継体・欽明朝の内乱」で、安閑-宣化系と仁賢系の対立があったのだという説である。

そもそも継体がどこの馬の骨とも分からぬ出自で、即位の後数十年も摂津から山城をウロウロしていたのだが、それが即位して、亡くなってそれからまた内訌になったのだから、シッチャカメッチャカである。

しかもその間に筑紫の君磐井の乱が起き、任那の国が滅び、大和の地に忽然と蘇我氏が姿を現していくのだから、まったく謎の50年である。

しかも継体天皇の没年には諸説あり、百済本紀には「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」となっているのである。

そこにはミステリー小説も真っ青の「謎」がぎっしりと詰まっている。身震いするほど面白い話題なのだ。

2.雲の切れ間

大和王朝には空白の50年がある。雄略天皇が死んでその跡目争いがゴタゴタして、空位になってしまう。これが西暦500年ころだ。
その後物部と大伴という二大豪族が越前から継体というカイライを探してきて皇位に据えるが、からっきし権威がない。
結局、継体は30年を経て大和入りに成功した。そして名実ともに天皇家を担うようになるのだが、それから1年もしないうちに死んでしまう。
その後二人の天皇が後を継ぐが、いずれも超短期政権で終わってしまう。
さいごに欽明天皇が即位して事態は安定に向かうのだが、とはいえそれにはさらに10年を要する。

というのが経過のあらましだが、何よりもまず継体と欽明とが本当につながっているのか、「継体は断体なのではないか?」というのが疑問である。

3.継体天皇の二つの顔

私は九州倭王朝の存在を信じる人間である。少なくとも6世紀初頭の倭王「武」までは、九州北部を根城とする王国が存続していたと思っている。
それがどこまで引っ張れるのかについては分からない。根拠はない。

それはどこかで終わる。多分任那の滅亡と前後して終わったのだろうと思う。
それに代わって日本を代表する勢力として大和王朝が登場する。それは早くとも、欽明天皇の治世の後半からだろうと思う。より端的に言えば蘇我稲目の登場がメルクマールだと考える。

継体はこの2つの時代の接合部に登場する。彼は2つの顔を持っている。

一つは近畿にあって、王の存在しない混乱の時代を終結させ、安定と成長の時代に導いていく「大和政権の最初の王」としての顔だ。
もう一つは「太子・皇子倶に崩薨」し、混乱の時代に突入する「倭王朝の最後の王」としての顔だ。
それは死に顔から後ろ向きに始まるストーリーとなる。それがこの「継体・欽明朝の内乱」なのだ。

4.継体天皇の表の顔

まずはウィキの記載から入る。
生まれが450年、没年が531年3月10日とされる。81歳という年齢は長過ぎるようにも感じるが、ないとは言えない。ただし450年には“?”がついている。
507年に57歳で即位して、在位は24年間ということになる。数字だけならありえない話ではない。今上陛下の御即位は56歳である。しかし考えにくい数ではある。
出身は越前国高向の豪族で男大迹王を名乗っていた。大伴、物部ら反大和系(河内系)豪族に推戴され即位した。
即位19年後の526年に初めて大和国に入り、都を定めた。531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、同日に崩御した。

これが日本書紀の記載である。

この記載を具体的に解釈してみよう。継体を押し上げた勢力は雄略天皇と河内王朝を支えた勢力であることがわかる。そしてなおかつ、河内王朝(大伴・物部連合)は後継者不在に陥っていことがわかる。
河内王朝の権威は失墜した。大和の勢力は河内に従わず別の権力を打ち立てた。
河内と大和の対立は30年にわたり続いたが、最終的には河内側の勝利に終わった。継体は大和入りして都を開く。
基本的にはこの後、大和盆地を根城に万世一系の血筋が続いていくわけだから、継体という王はとても大切な王ということになる。

5.裏の顔 そのA 古事記の顔

古事記は日本書紀よりひと世代前に稗田阿礼位の口述を筆記して作成したと言われる。二つの資料において継体天皇の記載はかけ離れている。
古事記では、継体天皇は生年485年、没年527年5月26日となっている。(注釈文では4月9日)
古事記と日本書紀との間にはあまりにも露骨な対立が見られる。
同時代の作品であるから、たがいに知らないわけはない。とくに日本書紀の作者は必ず古事記に目を通しているはずである。
であれば、日本書紀側が知っていて、あえて虚偽記載した可能性が高いということになる。

もし古事記に従うなら、話はよほど自然になる。即位は22歳だ。大和に凱旋したのが41歳。その翌年には死んだということになる。
では日本書紀はなぜ、古事記を無視してまで生年を35年も遡らせたのか。

そこには理由があるはずだ。それが百済関係だと思われる。

没年についてはさらにミステリアスだ。527年5月26日というと大和入りしてやっと1年、とうてい安定した支配とは言えない。むしろ4面敵の中で暮らしている感じだ。
もし皇位を禅譲してその日に亡くなったのだとしたら、それが平和的なものだったのかという疑いがきわめて強くなる。
継体は前例のない譲位という形で権力を奪われ、死を余儀なくされたのではないかという疑問が沸かざるを得ない。この疑問に古事記は一切答えていない。

もう一つ、磐井の乱だ。このような状況の中で果たして平定作戦を進めるだろうか。それだけの力が地方豪族連合に過ぎない大和(河内)朝廷にあったろうか。

だから日本書紀はこの年を没年にしたくなかったのだ。そこで後ろにずらせて、大和支配が安定し、禅譲のお膳立てが揃うギリギリの531年まで繰り下げたかったのではないか。日本書紀はご丁寧にも534年という異説まで紹介している。


5.裏の顔 そのB 百済本記の顔

これは本当に継体天皇のことなのか分からない。日本書紀の作者(おそらく百済人)が、「これは年代的に言ったら、継体天皇やろな」と思って書いただけのことだ。だから本文には組み込まずに、注釈として挿入してある。

その文章というのは、「辛亥の年(531年)に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」(日本天皇及太子皇子 倶崩薨)というものである。

ただ、百済の亡命者も経過は知らないから、辛亥年というだけの理由で話を作り上げただけだ。それが60年前であっても後であっても「アッ、そう」だけかもしれない。

もしそれが倭王何某と書かれていたとしても、690年に亡命して大和で外国の正史を編纂している人間にとってどんな意味があるか。大和の天皇と書きなおしても何の不思議もないのではないか。

彼らにとって、大和王朝が由緒正しい倭王朝の末裔ではなく、田舎の豪族連合政権の出自なのだとしても、どうでも良いのである。問題なのは、彼らがその時大和朝廷の食客でしかなかったということである。


6.「辛亥の変」で殺されたのは安康天皇?

ウィキでは、60年前の辛亥年、すなわち471年とする説を紹介している。「この年、大和朝廷では安康天皇が眉輪王に殺害された。混乱に乗じた雄略は兄や従兄弟を殺して大王位に即いた」とされている。
しかしこれは「天皇及太子皇子 倶崩薨」というのとは少し違うし、「雄略を倭王武に比定してバリバリ書きまくっている日本書紀の執筆者が、そのような単純な取り違えをするだろうか?」という、別の疑問が浮上する。


7.継体 531年死亡説を前提とする王権継承説話

話がどうしようもなくこんがらがっているが、もともと古事記をオリジナルと考えれば、「継体A」は527年5月26日に亡くなったのである。

皇位を後継者に譲り、その日に亡くなったというのは日本書紀の説明である。古事記にはそのような説明はない。おそらく磐井の乱も知らず、側近の悪巧みも知らず自然死したのであろう。

その後、安閑・宣化が短期政権を担ったあと、欽明へという流れはもっとも素直な政権論である。

ただ526年に大和を制圧し都を立てて、わずか1年後に亡くなるというのはいかにも唐突だが、そもそも古事記には20年にわたるオデッセイアは描かれていないのだから、そんなことはどうでも良いのだ。

これに対し日本書紀はことさらに生涯をドラマ化し、あえて不審死を匂わせ、さらに百済本記の「531年事件」を重ね合わせ、物語を作り上げている。

いずれにしてもここには、日本書紀が密かに重ね合わせたもうひとりの継体天皇がいる。この「継体B」こそは倭王朝を率い百済と交通し、任那を割譲し、磐井の反乱を乗り切り、31年に政変により打倒され、一家皆殺しにされたのである。

それでは、日本書紀はなぜ生年を35年も遡らせたのだろう。それは継体を倭王「武」に比定したかったためではないだろうか。

いまのところ、邪馬台国大和派の人々は雄略を武に比定している。しかし雄略の即位が絶対年代で450年ころであり、どうも合わない。
『梁書』は502年に倭王武を征東将軍に進号しているのである。そうするとこの時期に日本で天皇でありえた人物は継体しかいない。
そのために九州王朝の王であった「継体B」を大和王朝の継体に当てはめなければならないことになる。

しかしこれは相当の無理がある。倭王武が531年まで生き延びたとは考えにくい。おそらく倭王武の次の王、名無しだがとりあえず「継体B」を名乗る王がいたのではないか。


8.安閑・宣化天皇は倭王朝の最後の王

日本書紀はさまざまな問題をはらみつつも、最終的に欽明へのバトンタッチを認めている。しかし本当にそうだろうか。

欽明天皇は宣化天皇の娘婿でしかない。継体天皇の嫡男となっているがこれは怪しい。しかも彼は安閑・宣化系勢力と明らかに対立している。対立というより並行というほうが正確かもしれない。

しかも彼の近親者や支援者は明らかに大和系で、九州系の香りはない(蘇我稲目は元九州系の可能性があるが)。

この2つのグループの対立は最終的に宣化の崩御により解消された。
しかしもう一つの可能性、継体が死んだとき同時に安閑皇太子、宣化皇子も死んでしまい、それでは格好が悪いと言うので2年づつ生きたことにして欽明へとつないだのかもしれない。
なぜそうしたか、それは彼らを殺した連中にとってそのほうが都合よかったからである。

では誰が倭王朝を滅ぼしたか、最初から明らかにしているようにそれは大和王朝によるものではなかった。おそらくは九州王朝そのものの自壊作用ではなかったかと思う。

以前、それは百済によるものではなかったかと書いたことがある。かなり荒唐無稽な推理ではあるが、成り立たないわけではない。

しかしもっと考えやすいのは任那か、加羅か、金官伽耶あたりにいた和人集団である。

朝鮮海峡を挟んだ倭人集団は結局共倒れになり、その結果半島では新羅に国土を制圧されることになり、九州北部では欽明天皇の率いる大和軍に吸収合併されていくことになる。