日本書紀: 百済三書からの転載が想定される部分
(ウィキを見ていて考えついたこと)

1.百済三書をどう見るべきか

『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書を百済三書という。いずれもすでに失われているが、『日本書紀』への引用として一部が残されている。
なお「百済本紀」は後世に作成され、『三国史記』に収められたものであり、百済三書とは異なる。

日本書紀に引用されている逸文は、近肖古王から威徳王の15代200年にわたる。

絶対年代はわからない。一つの傍証としては三国史記にも同じ文献からの引用と思われる箇所があり、干支の2周分(120年)ずれて一致することが指摘されている。これは本居宣長、那珂通世以来の通説であり、承認してよいのではないかと思う。(ここからは逆に、その120年のずれがいつから解消されているのかも問題になるが…)

内容についても、人物名など明らかに大和朝廷の事情に合わせている場所を除けば、とりあえず史実とみなせるのではないか。

やって見る価値はあると思う。


2.誰が引用したのか

明示的な引用は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。ということは、引用が示唆される場所、参照したと思われる箇所は、はるかに多いことになる。

これだけ大量の引用を行いえたのは、百済から百済三書を携えて亡命して来た百済の御用学者のみである。

大和朝廷に「皇統記」みたいなものがあって、彼らはそこに適宜百済側の資料を突っ込んでいったのではないだろうか。

もしその皇統記が「古事記」に類するものであったとすれば、
「日本書紀」-「古事記」=「百済本記」
みたいな関係が成り立つのだろうか。