この論文の「序論」はとても面白い。著者の問題意識がとても共感を呼ぶ。
その上で本論に入っていくのだが、徐々に齟齬が生じてきて、この人にはマルクスの問題意識、権力の本質とか量から質への転換という考えが伝わっていないのではないかと思ってしまう。
ただそれはそれなのであって、序論のところは大いに勉強になるし、一生懸命受け止めてみたいと思う。

初期マルクスから革命家マルクスへ
*『ヘーゲル法哲学批判序説』『ユダヤ人問題によせて』および『経哲草稿』等の、いわゆる初期マルクスにおいては、未だ共産主義への移行が成就されていない。
* それに対し、『ドイツ・イデオロギー』および『哲学の貧困』『共産党宣言』等の1840年代後半の文献においては、共産主義者としての視点から「社会主義」リカード派社会主義やプルードンの社会主義等が批判されている。
中期の組織者マルクス
1848年革命は敗北し、ブランキストの革命論を受け継いだマルクスは挫折する。
1850年代から60年代にかけて、マルクスは“恐慌―内乱―革命”の希望を抱きながら、革命の準備と党派の組織に希望を託すが、予測は何度も裏切られる。

後期の理論家マルクス
後期マルクスにおいては、革命情勢はますます遠ざかり、それに伴って長期の革命構想がもとめられるようになった。
過渡的形態、改良的過程を織り込んだ展望の採用、平和的・非権謀的可能性が追求されるようになり、
これにともなって重大な戦略的・戦術的転換がおこなわれる。
それらは、おそくも1860年代半ばには形成され,パリ・コミューンの深刻な教訓を経過し,『ゴータ綱領批判』(1875)において明確な定式化が与えられた。(最後の段落には異論があるが、とりあえず…)

現代世界は、はるかに進んでいる
現在の世界においては、このようなマルクスの時代とはまったく異なった状況が広がっている。それを荒木さんは次のように説明している。

1.ブランキズムは完全に陳旧化した
マルクスが革命家の出発点においてイメージとしたのはブランキズムである。それは一揆主義そのものである。それは決死の覚悟を帯びた少数の革命家集団が、政府との対決を強行的に突破することを前提としていた。それは少数者による政治権力の簒奪を最優先課題としていた。
一揆主義者による暴力革命、そしてプロレタリア独裁を必然的にともなう革命戦略は、しかしながら中期マルクスにおいてさえ、すでに過去のものとなっている。
エンゲルスは「歴史に照らして,われわれもまた誤っていた。当時のわれわれの見解は一つの幻想であった」と自己批判している(「フランスにおける階級闘争」序文)

2.多数者革命と漸進的な所有制改革
21世紀の今日における主要な革命のイメージは、まず第一に、国民の多数が支持し推進する多数者革命である。第二にそれは立憲革命である。革命は民主的なプロセスを経て合法的・平和的に遂行される。第三にそれは高度福祉型の未来社会を目指す“生活第一”革命に収斂していく。
それは「新しい社会主義」の革命であり、抗しがたい理性の流れである。

3.19世紀型革命像から21世紀型革命像への道のり
上記のごとくマルクスが革命家を目指した最初期の革命像と、21世紀に住む我々が思い描く革命像とははるかに懸隔している。
この論文は革命運動が自らの論理をどう変えてきたのかの道筋を、とくに中期から後期マルクスへの変容を通じて描き出そうとしているのだが、それについては目下の関心領域から外れるので仔細には取り上げないでおく。
一言だけ言っておけば、マルクスとエンゲルスは19世紀末にすでにかなりのところまで進んでいたのであり、ボルシェビズムとスターリニズム、第二次大戦後に民族解放を闘った国々では、そこからかなり遡った場所から革命を開始したのである。


私にとって最も印象深かったのは、21世紀型革命の3つの性格付けである。すなわち多数者革命、立憲革命、生活者革命であり、これらを総称して「新しい社会主義」の革命として提唱することである。

ただし、それが「革命」であるということは19世紀来、通底しているのであって、そこには権力の移動が伴うのである。そしてそれが政治的な範疇における質的変化を持って始まり、社会の全分野に拡散するという特徴を持つことである。
そこには政治的、法的、社会的な“押し付け”が伴わざるを得ない。当然ながらそこには反発力も生じ軋轢も発生する。すなわちそこには運動が熱を発するごとく、「闘争」が発生するのである。

もうひとつは、「私有財産制度の否定」という革命の主要目標の一つが、依然として未確定のまま残されているということである。民医連における所有形態論争というのは、それ自身が「目標」ではないが、人民的共同を持続的に発展させる上での最大(というより最低)の制度的保障だということで決着がついた。
ただ、私有財産の否定だけではどうにもならないのではないか?というのが率直な感想である。株式会社制度も、官僚主義制度も個人所有制の否定の上に成り立っている。もう少し社会の形態ではなく社会の目的に即したパラダイム・シフトが必要なのではないかと思う。