マルクスの晩年の動きが今ひとつ見えなかったので、とりあえず年表化してみた。
資本論の第一部出したのが1867年。それから数年間は、国際労働者協会の会長としての仕事がかなり忙しかったようだ。
それが徐々に活動の場が狭まっていく。とくに普仏戦争とパリ・コミューンへの関与が必ずしも大方の支持を得ることができなかったようだ。
ハーグの大会をもって第1インターは事実上の開店休業に入っていく。ドイツで社会民主党(アイゼナッハ)が勢力を増したときは羽振りも良かったのだが、ゴータ大会でのラサール派との合同の後はドイツ国内でも影が薄くなっていく。
理論活動はその後も展開した。
これに宮川彰さんの作成した資本論第2部草稿の執筆年代太字で重ねておく。
エンゲルスによってまとめられた(ゴチャゴチャにされた?)第2部・第3部草稿の他にも、剰余価値学説史や、ザスーリッチ論文などがあるが、今回は調べ切れていない。あまり一生懸命やっている研究者もいないようだ。

1864 第2部草稿 第1稿執筆(65まで)

1865年1月 第3部「主要原稿」の執筆開始(66年12月まで)

1867 『資本論』第1巻ハンブルグで出版 

1867 普墺戦争。勝利したプロオシアはドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放。プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立する。マルクスはこれを「プロレタリア闘争に有利な展望が開けた」と一定の評価。リープクネヒトとベーベルは帝国議会議員に当選。

1968 資本論第二部第2~第4草稿に着手(第2稿は70年まで、第3,第4稿は年内に執筆完了)

1869年 エンゲルスがマルクスの借金(浪費による)を肩代わりする。4年間で1862ポンドに達した。

1969 ベーベル、リープクネヒトらが非ラサール派の労組を組織し、社会民主労働党(アイゼナハ派)を結成。

1870 普仏戦争が始まる。マルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある」と(私的に)論評。

1870 エンゲルス、家業から解放されロンドンに居住。

1870 第1インター総務委員会第1宣言を書く

1871年

3月 パリコンミューン。『フランスにおける内乱』を執筆。

6月 パリ・コミューン支持に反発したイギリス人グループがインターナショナルから脱退。

1872年9月 ハーグでインタナショナル大会。マルクスはプルードン派と組んでバクーニン追放に成功。

1873年には肝臓肥大という深刻な診断。鉱泉での湯治を目的にドイツ国内の湯治場を巡る。

1875年2月 ラサール派とアイゼナハ派」(マルクス派)が合同して「ドイツ社会主義労働者党」が結成される。
ゴータ綱領批判(公表は91年): マルクスは「最悪の敵である国家の正当性を受け入れ、小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるとしたもの」とこき下ろす。また「未来の共産主義社会の国家組織にも触れず、“自由な国家”を目標と宣言するのはブルジョワ的理想だ」と批判。
1876年 フィラデルフィアでインタナショナルの最後の大会。解散決議を採択。マルクスの公的生活はこれをもってほぼ終了。

1876年 草稿 第5,6,7稿に着手(いずれも80年に執筆完了)
第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿
1877年 草稿 第8稿に着手(81年に執筆完了)

1878 エンゲルス、『反デューリング論』を発表。間もなく抜粋版として「空想から科学へ、社会主義の発展」が発行される。マルクスは第2篇経済学・第10章「批判的歴史から」を執筆。

1878年 チャンネル諸島で湯治。

1881年

3月 ザスーリチへの手紙(ドイツ語版)が出版される。

夏 妻イェニーとともにパリの娘の元を訪問。帰宅後イエニーが死去。

1881年 草稿第8稿を脱稿。その後当初の目的だった第3部の書き直しには着手せず。

1882 この年も旅行を繰り返す。

1883年

3月14日 マルクス、ロンドンの自宅で病死。享年 64 歳。
E・H・カーは
マルクスはインタナショナルのハーグ大会の後も10年余りを生きていたが、その間は大して目立ったことはない。それは老衰の時期であり,不健康と無能力とが増した時期である。
と書いている。それまでの一心不乱の人生に比べれば、それも半分はあたっているのかもしれない。



1885 『資本論第2巻』が発行される。

1886 エンゲルス、『フォイエルバッハ論』

1891 社会民主党『エアフルト綱領』

1894年 『資本論』第 3 巻が出版

1895 年 エンゲルス死去