「未来社会論」 随想

聽濤弘さんの本「200歳のマルクスならどう新しく共産主義を論じるか」の読後感の続きです。

「未来社会論」ときくと、つい私は、大衆社会論とか市民社会論が流行った60年代の議論を思い浮かべてしまいます。

今あまりそういう議論は意味ないんじゃないかという気もするのです。なぜなら、アメリカやイギリスの若者運動が正面から「社会主義」という言葉を掲げて、それが市民権を獲得しようとしているときに、我々の目標を「未来社会」という曖昧な用語に置き換える必要はないのではないかと思うからです。

ということで、社会的正義と福祉が優先される時代・我々の目指すべき社会という意味で「社会主義」論を熱く語るべきかな、と思います。

資本論→賃金・価格・利潤→ゴータ綱領批判のなかに社会主義像はない

実は以前から私はそう思っているのです。

マルクスの中期から後期への一貫した問題意識は、①改良ではなく革命を、②政治闘争で権力を獲得する、③私的所有を否定する、なのだろうと思います。(ただし③は相当揺れがあります)

そして新しい革命の担い手が労働者階級に移行することを確信し、その根拠を産業資本主義の発展そのものの中に捉えようとしたのだろうと思います。

そういう強烈な問題意識のもとに資本論は書かれているわけで、歴史貫通的な人類の進歩との関係で社会主義が論じられているわけではありません。

したがって、「オメェラ、チンタラやってんじゃねぇよ」というゴータ綱領批判の中に、未来社会論を見つけようというのはお門違いなのではないかと思います。

それはマルクスの指導する国際労働者協会が徐々に影響力を失い、いったん幕を閉じる過程でのマルクスの焦りの表現でもあります。そんなにお行儀の良い文章ではないと思います。

もし社会主義社会像を導き出すのであれば、私は「経済学批判序説」に戻らなければならないと思うのです。
消費によって新たに生産の欲望を想像することにおいて、消費は生産の衝動を創り出す。消費は生産者を改めて生産者にする。
 また生産は、「一定の消費の仕方をつくりだすことによって、つぎには消費の刺激を、消費力そのものを、欲望として創造することによて、消費を生産する」
 ここでは、消費という行為が生産を生産たらしめ、生産という行為が、消費を消費たらしめる関係性が、時間を経由して完成されることが示される。
一人ひとりの人間の中に生産力能と消費力能がふくまれています。
消費力能というのは変な言葉だが、“欲望の生産”あるいは“生産力能の生産”という意味での力能です。

資本主義的生産は資本主義的消費を必要とします。それは主体的要求を抱える近代的個人による消費です。

生産と消費は、いわば自転車のペダルを交互に踏むように相補的過程を繰り返します。それによって人は前に進んでいくのです。

資本論は、基本的には経済学の本なので、哲学を平均値に置換している

生産は消費であり消費は生産であるという観点、欲望を持つ諸個人が生産の原点であるという歴史貫通的視点は、資本論の中ではとりあえずは無視されています。
労働力の価値は労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。…一定の国や時代には必要生活手段の平均範囲は与えられている
しかし、労働する諸人格の価値は、そのような生産コストの集合みたいな惨めなものではないはずだと思います。

価値は価格の集合としてのコストではありません。それは使用価値を根っこに踏まえた抽象なのです。もう一つ、価値は交換によって価格に転化するのではありません。それは仮定された価値・価格関係であり、その使用を通じて価値として実現するのであり、その使用価値に対して後出しで確定されていくのです。
その価値は生産→交換→消費(使用)→欲求→再生産への衝動という循環を経て決まっていくのであって、それが諸商品の平均値となっていく中で価格が歴史的に定まっていくのであろうと思います。

この平均値の決定までの歴史貫通的過程は、資本論の中ではジャンプされています。多分、第2部の第二次草稿がそこに相当するのでしょう。下記をお読みください。