年表 津軽安藤(安東)家の盛衰

      アイヌ民族の歴史年表 東北エミシの年表 その4 より該当部を抜粋し、
若干の増補を加えたものです。

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。

1189 幕府は奥州惣奉行を設置。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。

1990年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊の子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1191 頼朝軍に従った南部氏の一部が陸奥九戸、糠部へ移住。元の根拠地が甲斐の南部だったために南部藩と名乗ったらしい。本格的な入植は1334年に国代として赴任してからとされる。

安東家が蝦夷管領に

1217年 鎌倉幕府執権・北条義時、陸奥の守を兼任する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(太郎)を津軽外三郡守護に任命。
安東家はあわせて蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)にも任命され、「東夷を守護して津軽に住す」役割も担う。
1229年 津軽外三郡守護の安東氏が、十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放される。

1229年 安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。北海道からの交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する役割も引き継ぐ。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1250年ころ 安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ=アイヌ)と蒙古軍が衝突。骨嵬は朝貢を強いられる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。
1.仏教を夷島に持ち込み強制した。
2.元との講和を巡る方針争い
3.蝦夷に対する苛烈な収奪
4.蒙古との衝突による戦費増大 などが原因に挙げられる。

1274年 元軍が北九州に襲来。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

1300年頃 『吾妻鏡』に、強盗や山賊などを捕えて蝦夷が島に流したとの記載。

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。
十三湊、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。安藤氏所有の「関東御免」(幕府公認)の津軽船は20隻を数え、若狭や越前まで 蝦夷産の鮭や昆布を運んでいた。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

津軽大乱

1318年 蝦夷への対応をめぐり、惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。実際は蝦夷沙汰職相続を巡る跡目争い。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1318 北条高時、称名寺に蝦夷鎮圧を感謝する書状を奉納。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。津軽大乱が始まる。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年 安藤氏で内紛。季長の退陣を求める従弟の五郎三郎(季久)が対立。岩木川を挟んで季長は西が浜(深浦)に、季久は外が浜(青森市)に拠点を構え対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷管領職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。裁定役の長崎高資が双方から賄賂を受けたため、かえって紛糾。

1324年 鎌倉幕府、蝦夷降伏を願い祈祷を行う。翌25年にも同様の記載あり。

1325年7月 北条得宗家、安藤季長を蝦夷管領から更迭。これに代わり五郎三郎季久が管領となり、又太郎宗季を名乗る。津軽に戻った季長は、鎌倉幕府の裁定に従わず反乱を起こす。

1326年

3月 鎌倉幕府、あらためて宗季(季久)を蝦夷管領に任命する。陸奥蝦夷の鎮圧のため御内侍所の工藤祐貞を派遣。

7月 工藤祐貞、西が浜の合戦で安藤季長を捕縛し鎌倉に帰還。その後、季長の郎従の安藤季兼が「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、宇都宮高貞・小田高知の率いる「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤宗季(季久)は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。この事件をきっかけに幕府の権威は大きく失墜する。

東北地方における覇権争い

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。中身はなにやらさっぱりわからん。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。鎮守府将軍には足利尊氏が任じられる。外浜・糠部郡らの北条氏領を与えられ、蝦夷沙汰に着手。

1335 足利尊氏が建武政府に反旗。南朝側は北畠顕家を陸奥守兼鎮守府将軍に指名。曽我・安藤家は足利につき南部らと戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立し室町幕府を創設。安藤家は北朝に与し、室町将軍に直属する御扶持衆となり、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1340年 興国の大津波。颱風により十三の地が壊滅して、住居地・城郭・寺社なども一挙に流失。十三氏は十三の地を捨てて大光寺に移る。

1356 諏訪大明神絵詞が成立。奥州戦争の従軍兵士の見聞を基にしており、信憑性が高いとされる。
絵詞の要旨: エゾ は日の本、唐子、渡党からなる。日の本、唐子は和人と異なり夜叉の如き様相で、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らない。言葉はまったく通じない。住むと ころは外国につながっている。一方、渡党は津軽に頻繁に往来し交易を行う。和人と似ていて言葉も何とか通じる。髭や髪が多く、全身に毛が生えている。乗馬の習慣はなく、骨鏃を使った毒矢を用いた。
1361 青森県東部を支配する曽我氏、南部氏との戦いに敗れる。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続く。このため樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定し、さらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。
西の博多に匹敵する北海交易の中心として西の博多に匹敵するに至る。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。
1395年 安藤盛季の弟鹿季が足利義満の認可を得て秋田湊家を創設。鹿季は南朝側の秋田城介を駆逐し、支配を確立。これ以後、湊家を上の国安藤氏、そして津軽の安藤氏を下の国安藤氏というようになる。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1410年 南部守行と秋田湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。

津軽の安東家(下の国)の滅亡

1418年 南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423年 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎(ラッコ)皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。
本当は十三湊は1340年の津波の後も健在で、このとき南部氏により焼け去ったとの説もある。
1432年 安東盛季と子康季、唐川城と柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。幕府が調停に乗り出す。

この後の経過についてはさまざまな異説があるが、あまり詮索する意味はないようだ。


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2018年04月14日 アイヌ史 雑記