1948年の南朝鮮議会選挙について
前回の学習会で1948年の南朝鮮で公正な議会選挙が行われたか否かにつて議論がありました。
少し調べたので、報告します。
結論から言うと、カニンガムは不公正だったと言っているようですが、選挙そのものが不正なものというわけではなかったようです。
私はうろ覚えで、第1回目の選挙は日本統治時代の有権者名簿に基づいたもので、事実上普通選挙ではなかったかもしれないと喋ったのですが、後で調べてみると、それは1946年10月の過渡立法議会選挙を指したものでした。
私の韓国戦後史年表では、こうなっています。
10.24 布告第118号が公布される。立法議院の創設を認可する。
10.26 過渡立法議会選挙が実施される.民選議員は総督府時代の選挙法に則り,多額納税者と地主のみに投票権.共産党は選挙をボイコット.呂運亨は落選.多くの朝鮮人は選挙の存在そのものさえ知らずに終わる.
その4日後に第一回国連総会が開催されています.総会は国連監視下に全朝鮮の総選挙を行い,その結果に基づいて統一政府を樹立すると決定しています。米国の提案に沿ったものですが、ソ連は反対していません。
一方、北では金日成を軸とする親ソ連政権が着々と組織されていきます。
その後1年余りの間、南朝鮮では左翼の退潮が進みます。これに伴い南北の復興の有り様は大きく食い違ってきます。
そして47年11月、国連総会は臨時委員会のもとで南北同時総選挙を実施すると決議しました。
この決議の採択にソ連は欠席していますが、総会後直ちに反対の態度を明らかにします。
なぜ欠席したかについてはよくわかっていません。しかしその後の流れを見ると、南に単独選挙を行わせ、それを理由に南北分断の固定化を図ったと見ることもできます。
その後の流れというのは、南側の独立勢力が単独選挙反対闘争を大規模に展開したのに対し、北は口では同じスローガンを語りながら、実際には独自憲法を作り、「朝鮮人民軍」を編成していったからです。
南での単独選挙反対闘争はすでに弱体化した左翼勢力ではなく、金九ら民族主義者によって担われました。彼らは選挙ボイコットを訴え、全国ゼネストを繰り返しました。
その最大の戦いが4月に始まった済州島事件です。
5月11日、選挙が強行されました。選挙そのものは普通選挙ですが、強制はいたるところで認められました。
右翼団体・警察が住民を投票に動員,強制駆り出しを行いました。それでも棄権するものは、「アカ」のレッテルを貼り、
米の配給票を支給しないなどの攻撃を行いました。

結論

1948年の国連管理下における第1回総選挙は、形式だけ見れば普通選挙ですが、およそ民主的に行われたものとは言えません。
最大の政治潮流であった民族派や、左派は単独選挙に反対し、ボイコットしました。これを見たオーストラリアやカナダなどの同盟国も選挙強行に反対しました。
したがってこの選挙はアメリカが単独で強行した選挙でもありました。
また選挙に反対する民衆は暴力や行政権力によって弾圧されました。少なくとも民主的な手続きで実施された選挙と言うには程遠いものでした。
ただし、結果として単独選挙になってしまった理由は、アメリカだけに帰することはできないかもしれません。
南北同時選挙が南の単独選挙となり、結果として北の政権が生き残ることができたのは、北にとっては良い結果でした。もし同時選挙が行われれば、人口の多い南部の世論が大きく反映されることになり、おそらく金日成の政治生命は尽きていたでしょう。
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