日本人の起源を考える
…主としてY染色体ハプロを手がかりとして…

はじめに

1.なぜY染色体ハプロなのか
Y染色体ハプロ以前のさまざまなタイピング
人類移動のトレーサーとしての特異性
ミトコンドリアDNAとの組み合わせ
全ゲノムにおけるホワイトノイズをどう取り除くか
Y染色体ハプロの謎、なぜサンプルが増えないのか

2.Y染色体ハプロによる人類の系統図と移動経路
C系とD系の相互関連
南方ルートと北方ルート
O系のサブタイプの分布はいかに形成されたか

3.日本におけるY染色体ハプロの分布

2つの原日本人: 旧石器人
1.ナウマン人
4万年前に朝鮮半島からナウマンゾウを追ってやってきた。
Y染色体ハプロでいうとC1b系で、現在では日本にしか存在しない故系とみなされる。
北海道以外の全国に均等に分布する。
2018年09月17日 最初の日本人は朝鮮半島からのC1人か

2.マンモス人
2万5千年前にマンモスを追って樺太から北海道へ渡ってきた。マンモスは津軽海峡を渡っていないが、マンモス人は海峡を渡り南進した。マンモス人のY染色体ハプロはD系で、C系と同じく出アフリカのときにすでに形成されていた古いはプロで、現在ではC1系と同じく日本にしか見られない。

3.原日本人から縄文人へ
この2つのハプログループは3対1ないし4対1の割合で混血した。北海道を除きC/D比に地域差がないことから、両者は長期間をかけて平和的に混血を完成させたとみられる。
大動物のハンターであった原日本人たちは、大動物の減少に合わせ、小動物を罠や落とし穴で捉える知能的な狩猟に変わった。
また漁撈が全国で、落葉樹林帯では採集が併用されるようになった。これらが貯蔵・調理用具としての縄文土器の発達を促した。

4.沖縄・先島諸島の人々
港川人その他、南方系とみられる人骨が多数発掘されている。しかし今日の沖縄人のY染色体ハプロには南方由来の要素(C1a系あるいはO1a系)はなく、これらの人類は絶滅したとみられる。

晩期縄文人と渡来人

1.晩期縄文人
紀元前2千年ころから後、九州北部から日本海側に一定の特色を持つ晩期縄文文化が発生している。
晩期縄文人をY染色体ハプロから分けるのは難しい。西日本にわずかに分布するC2系がそれに相当する可能性はある。
その場合はもう一つの縄文人ということになる。
当時の西日本は常緑樹林が広がる地域で、人口密度は疎であった。彼らは漁撈を主たる生活手段とし、海に生きる民であった。明らかに朝鮮半島と交易関係を持ち、陸稲をもたらすなどの足跡を残している。
後期縄文人の最大の歴史的役割は朝鮮半島南部にいた長江文明の流れをくむ人々=渡来人を日本列島に誘導したことである。
同時に渡来人と混血し弥生人を形成したことである。

2.長江人
私は紀元前8世紀ころから渡来してきた人を長江人と呼ぶ。
1万年前から5千年前にかけて長江流域に米作文化を作った人々である。
長江人について語る前に、O系人について語らなければならない。
5万年前ころからアジアにもホモ・サピエンスが浸透し始めた。最初はD系人、その後にC系人が入った。C系人はオーストラリアからシベリアまですべての地域を網羅し、一部はベーリング海峡を渡って北米まで到達した。
D系人は、チベットの山間と日本にわずかに生き延びた。
(新大陸のC系人はいったん絶滅し、1万年前ころ第2波が入り、それが現在の先住民につながる)
2万年前ころから、新たな人類の移動があった。それがN系とO系である。O系人はインドからインドシナを経由して中国大陸に広がった。このうちO1系人は長江流域に広がり、水稲栽培を展開した。O2系人はさらに北進し、華北から南満に展開した。N系人はほぼ同様の動きをしているが少数である。
在来のC系人はモンゴル~北満以北へと圧迫された。
やがて、O2系人はシルクロードを通じて麦栽培と鉄器を獲得し強化された。
長江文明を築いたO1系人は圧迫され、同心円状に拡散した。東側に移動したO1b系人は朝鮮半島南部に移動し、その一部が日本列島へと渡来した。

3.銅鐸人
渡来人と縄文人の混血が弥生人であり、現日本人の骨格をなしているのだが、私はあえてこれを銅鐸人と呼びたい。
なぜなら弥生時代後半にはもう一つの弥生人、すなわち天孫族が流入してくるからだ。
銅鐸人は渡来人と縄文人が平和的に共存(正確には棲み分け)する中で混血していくのだが、天孫族は最初から外在的な征服者として立ち現れる。
銅鐸は長江流域に起源を持ち、青銅器文明を体現している。それは長江文明の西端にあたる四川文明とも照応する。
渡来人の数はそもそもそれほど多くはない。しかしそれはねずみ算的に拡大再生産をしていく。採集民たる縄文人が自然環境に厳しく規定されているのに対し、米作は人手さえあれば収穫は無尽蔵だ。
したがって渡来人の数は等比級数的に増加し、あっという間に縄文人を凌ぐほどに成長する。

4.天孫族
考え方としては江上波夫の騎馬民族説と同じだが、もう少し実態に即して論じたいための命名である。
「新撰姓氏録」でも天照大神などの子孫を「天孫族」としており、私の独創ではない。
倭王朝、出雲王朝、大和王朝はいずれも天孫族により形成された。
彼らは銅鐸人と同じく渡来人であるが、銅鐸信仰とは無縁でこれを強引に廃棄している。
Y染色体ハプロとしては漢民族と同じO2系と思われ、もともとの南朝鮮の種族(おそらくC2系)ではなく、遼東~南満の出自であろう。
もちろんそこから騎馬に乗って直接来たのではない。洛東江流域に拠点を置くO2系集団ではないか。
此処から先は私の当て推量だ。
衛氏朝鮮が紀元前100年ころに漢により滅ぼされた。その残党が帯方郡の南、無主の地に政権を立ち上げた。これが高天原政権だ。その武将の一人瓊瓊杵尊が九州に渡海攻撃(天降り)を仕掛けたのではないか。
彼らは三韓の民が九州に渡って成功しており、金海に交易拠点を建設したのを知っている。とすればこれを支配し、軍資金を獲得して漢相手に反転攻勢をかけるチャンスだと思ってもなんの不思議もない。
天孫族は日本を支配・収奪するためにやってきたのであって、そこに同化しようとは考えていない。したがって、日本の人口構成を変えるほどに子孫を生み育てようとは考えていない。
むしろ血の純潔を保って、原住民と同化しないように心を砕いたはずである。

東北のエミシと北海道のアイヌ

6世紀の末ころまでに、大和朝廷が日本の西半分を支配下に治めたとき、人種構成は次のようになっていた。

国家の頂点を形成するのは、天孫族の武装勢力であった。その下に和人集団が形成された。これは銅鐸信仰を捨て習合した天孫信仰(八百万+天照)をもつ旧渡来集団で、これに旧縄文系がほぼ吸収されつつあった。

一方、関東から北の本州では稲作の導入に伴い、和人文化の選択的受容が続いた。しかしそれは大和朝廷の支配の受け入れとは直接結びつかず、さまざまな抵抗があった。
その結果、縄文人居住地、混住地が帯を形成しそれは次第に北上した。
最終的に、東北には縄文色の濃い和人集団が形成されたが、それは時代とともに混和されつつある。

北海道では和人の入植が気候上の理由から遅れただけでなく、政策的にも制限された。その結果、純粋な縄文人の文化が色濃く残された。
ただし、アイヌ人は7世紀ころから徐々に進出した縄文人で、それまではオホーツク人が居住する土地であった。

東北と道南の縄文人は北海道において「セミ和人」として振る舞い、オホーツク人(粛慎)を圧倒し、女性を娶った。
アイヌ人のY染色体ハプロは縄文人と一致するが、ミトコンドリアDNAはオホーツク人のそれと一致する。これは沖縄人と異なるところである。


その後の人種混合

ということで、日本人というのは、とくに紀元前5世紀から紀元5世紀くらいの1千年間に著しい変容を遂げつつ形成された。
逆にその後は新参者のいない、きわめて安定した人種環境のもとに暮らしており、そのことが人種的閉鎖性を生んでいる可能性もある。

その枠内ではあるが、北海道は最初の百年に著しい人間変動があって、日本の中では珍しく開放的な個人主義が支配している。

東京を中心とする首都圏は、いまもなお人間のるつぼ的な雰囲気が支配している。