それを社会主義と呼ぼうじゃないか  再論

2年半前に「それを社会主義と呼ぼうじゃないか」という記事を書いて、あまり反響があったわけではないが、実はこのキャッチフレーズを気に入っている。

「社会主義」という思想
記事はバーニー・サンダースの民主的社会主義について語ったものだが、実は「バーニーの言っているのは社会主義じゃないよね」というのが本音だ。
バーニーの主張を聽く限り、彼は「遅れてきたニューディーラー」に過ぎない。
にもかかわらず、彼はあえて自らを社会主義者と規定するのだ。
なぜなら、かつてFDRが社会主義者呼ばわりにひるまずに、改革を成し遂げたように、バーニーも社会改革を目指すからだ。

あえて「社会主義」という意味
アメリカは異常なまでの反共主義の国だ。リベラルとか民主党と言っただけでもアカと同じだとみられる。「9.11」のあと、私たちはこの国の内包する狂気を垣間見せられた。それは強烈な体験だった。
そこであえて社会主義を名乗ることの意義を、我々ももう一度とらえて見る必要があるのではないだろうか。

社会主義と民主主義は表裏一体
社会主義というのは民主主義と裏表の関係にある考えなのだろうと思う。
「国民が主人公」というのを政治的な平等にひきつけて捉えれば民主主義だが、経済的な平等にひきつけて捉えるならそれは社会主義ということになる。

経済的平等と社会主義
もちろん政治的な平等が権利としての平等であるように、経済的な権利も権利としての平等である。所得を平等にということではない。そこには「才能と教育に応じて」平等にとか、「市場原理を勘案して」平等にとか入ってくると思う。何よりも公正と正義が求められる。能力の差を超えた「格差」が忌避される。
要はその辺もふくんでの「同一労働・同一賃金」である。それと同時に社会としての福祉と人間としての尊厳が守られる最低線が引かれる必要がある。

社会主義の本家あらそいは不要
「それを社会主義と呼ぼうじゃないか」というのは、実はもう一つの側面をふくんでいる。
すなわちそれは「それを科学的社会主義と呼ぶのはやめようじゃないか」という呼びかけである。
社会主義を固有名詞にしないで、いくつかのクライテリアを満たすものを社会主義に括ろうというのだ。その最低限の基準は、政治的な民主主義と一体のものとして提起されていることだ。

日本国憲法と社会主義
日本国憲法では国民主権、平和的生存権がうたわれ、13条で表現の自由など政治的自由がうたわれる。さらにそのうえで社会的権利も明記されている。
私は日本国憲法の25,26,27条の尊重を社会主義的性格の表れとして重視したいと考えているが、いかがであろうか。