弁証法と戦闘的唯物論

最初にマルクス主義に近づいたとき、教えられたのは、「弁証法的唯物論と史的唯物論」であった。
だから、依然として弁証法的唯物論という言葉は脳ミソに焼き付けられている。

これは、結局、世の中の理論は唯物論と観念論に分かれ、これは唯物論が正しい、というのが第一段階。
それから次に、唯物論にも弁証法的唯物論と機械論的唯物論があって、これは弁証法的唯物論が正しい、という二段重ねになっていた。

それで機械論的と呼ばずに形而上学的ということもあったが、機械論と形而上学の違いはよく分からなかった。いまでもよく分からない。

これで、四つ目表ができあがることになる。でもこれって、形而上学そのものじゃァない?

ところが話はこれで終わらない。唯物論と経験批判論という本が出てきて、唯物論と観念論の対立だけではなく、主観的観念論と客観的観念論があってということになる。

そうすると、議論は豆腐を縦横のほかに上下にも切り分けた8象限のカテゴリーに裁断されることになる。

これはもはやスコラ哲学そのものではないか。

その後、50年を経たいま、私は「弁証法的唯物論」などというパラダイムはまったく信仰していない。それは真面目なキリスト者が三位一体など信じないのと同じだ。

強いて言えば弁証法論者だということになる。それはすべての存在を過程の中にとらえる相対論であるとともに、過程の絶対性をエネルギーとして把握する実体論である。
それは時間軸の絶対性を信じるとともに、時間軸を越えた5次元時空があると信じることである。

これは世界のモデルである。これは立場の違いを越えて人類が普遍的に共有できるモデルだと思う。

ただその上で主体の問題は残る。党派性と言っても良いのだろう。その党派性の拠り所が唯物論なのだろうと思う。
だからレーニンが「戦闘的唯物論の意義について」を語ったとき、彼は正しかったのだろうと思う。

レーニンは戦闘的唯物論者が戦うための武器として弁証法の意義をとらえた。それはすべての知識人が、方法論として共有すべきものだ。

ただそれはもっと研ぎ澄ます必要がある。弁証法はヘーゲルの専売特許ではない。エンゲルスの専売特許でもない。もっと独りよがりでない、客観的で筋肉質な体系が必要なのだ。

それは自然弁証法(シェリング)と、認識の弁証法(フィヒテ)と、弁証法的論理学(ヘーゲル)から構成されるだろう。

いっぽう、唯物論に体系はない。それは戦闘的実践の中で研ぎ澄まされるほかない。そうでなければ、常にさまざまな形の観念論に落ち込んでいく他ないのである。マテリアリスムというのは究極的にはリアリズムである。

結論

弁証法的唯物論などというものはありえない。あるとすれば弁証法的唯物論者、あるいは唯物論的弁証法ということになる。
政治運動に引き寄せていうならば、共産主義的社会主義、唯物論的社会主義ということになるのだろう。
「資本論」は唯物論者でなくても理解できる。しかしそれを実現するのは戦闘的唯物論者、すなわち共産主義者以外にありえないのである。