生磐についてもう少し勉強する

生磐についてもう少し勉強すると、違った側面が見えてきました。
まず出典ですが、これは日本書紀の憲宗紀に記載されたものです。

日本神話・神社まとめというサイトの
という箇所にある現代語訳文を転載させてもらいます。
(即位3年)この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は任那(ミマナ)に越境して立ち寄り、高麗と通いました。
西の三韓(ミツノカラクニ)の王になろうとして、官府(ミヤツカサ)を整え、治めて、神聖(カミ)と自称しました。
任那の左魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちが策謀して、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム=地名)で殺しました。 
帯山城(シトロモロノサシ=現在の全羅道北道井邑市の泰仁)を築いて、東道を防いで守りました。
すると粮(カテ=食料)を運ぶ津(ツ=港)が断絶して、軍隊は飢え、苦しみました。
百済の王はとても怒り、領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣して、軍隊を率いて帯山に行き、攻めました。
生磐宿禰(オイワノスクネ)は軍隊を進めて逆に迎え撃ちました。胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で向かうところで敵を皆破りました。一人で敵100人に当たりました。しばらくして、武器は尽き枯れました。
それで事が成らないと分かって、任那へと帰りました。
これにより百済国は佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺しました。
あきらかに百済側から見た史実で、百済本紀からのパクリだということが見て取れます。

訳文でも十分意味は伝わりますが、煩雑なため、要点を箇条書きにします。その際、主体を生磐側にスライドさせて記載します

①487年、紀生磐が任那に越境した。
生磐は任那人ではなく倭人であるということだ。そして倭領から任那に入った。
②彼は高麗と通じた。
百済は高句麗と戦い、苦戦していたから、生磐の行為は裏切りと映った。
③生磐は「西の三韓」の王になろうとして、官府を整え、神と自称した。
「西の三韓」が難しいが、素直に読めば旧三韓の西部すなわち馬韓領域ということになる。
百済も新羅ももともと三韓ではなく、三韓に侵入してきた北部勢力である。任那には馬韓(全羅道)を守る権利と義務がある。
倭国は百済が高句麗と戦う限りそれを支持するが、南に進出しようとするならそれと戦う。
④生磐は全羅北道に帯山城を築き、百済の南下を阻止しようと図った。手勢の主力は佐魯・那奇他甲背らの任那軍だった。
⑤これを見た百済は怒り、攻撃を仕掛けた。
守備隊は果敢に戦ったが、最後に破れ任那軍300人が殺され、生磐は倭に逃げ帰った。

この一連の出来事は、昨日の記事の後半にあたります。前半の部分、小弓の死亡から生磐の参戦、子鹿火や韓子との関係悪化までの前半は雄略紀の方に入れられています。

後半を先に読むとこれらの記載の本質がわかります。生磐と戦いこれを追い出した百済の一種の「言い訳」なのです。

日本と喧嘩はできないが任那の支配する全羅道は欲しい、というのが百済の本音です。

ここには書かれていませんが、この後百済は領土を大きく南にシフトして生き返ります。そして任那をつぶし、これを新羅と分け合います。

一方、朝鮮半島における倭国のプレゼンスは著しく衰退し、任那も国土を百済に剥奪されやがて姿を消していくことになります。

結論から言って一連の出来事は日本書紀の作成に関わった百済亡命者が、百済本紀から適宜コピー&ペーストしたものだろうと思われます。雄略天皇はただの借り物に過ぎないでしょう。
ただし倭の五王との関連は不明です。時期的にはかぶっていますが…

ついでに
倭国と任那の関係ですが、基本的には同根の関係と思います。ただしそれは高天原政権の出自だという点でのみ同根であって、長江文明の後裔である弥生人には関係のない話です。
もう一つ、任那の一部である一定の地域は倭王国と直接の関係を持っていたと思われます。つまり倭国の一部が半島南端部にも存在したということです。
なお、瓊瓊杵王国のルーツとしてタカミムスビを想定しましたが、雄略紀にタカミムスビが任那由来であると語られており、高天原=任那説にいっそう確信を持つこととなりました。