「神武東征」を考える その3 神武東征の絶対年代

神武東征の絶対年代は、考古学的資料から比較的容易に推測できる。
それはおそらく紀元300年を挟む前後50年のことであろう。
最大の根拠は銅鐸文明の突然の消滅である。銅鐸文明を担ったのは弥生人のうち長江文明由来の渡来人である。彼らは紀元前300年ころから銅鐸文明を開始した。それは次第に東漸し紀元150年から200年に近畿で最盛期を迎える。しかしその後急速に衰退し、銅鐸は打ち捨てられる。
これが近畿では紀元200年から250年と推定される。ここを挟んで地理的には西から東へと順に消滅していくのである。
銅鐸文明を抹殺し、征服王朝を打ち立てたのは「にぎはやひ王国」である。
彼らは出雲に最初の拠点を築いた後、いづれかのルートを通って近畿に達した。
とすれば纏向遺跡は「にぎはやひ」時代のものと考えられる。彼らが銅鐸を廃棄し、弥生人にスサノオ信仰を押し付けた後、今度はそこに神武が入ってくることになる。
神武にとって「にぎはやひ王国」の建設はそう遠い昔のことではなかった、と想像される。
そこで紀元300年という数字が出てくる。
となると、神武と前方後円墳の関係ということになるが、端的に言えば、前方後円墳はにぎはやひ王国の築いた文化であろうと思われる。
もともと九州に前方後円墳の伝統はない。それは大和・吉備に始まり九州をふくむ全国へと拡散していくのである。
さらにいえば、それは大規模干拓・灌漑事業の副産物であり、それに王権が便乗したに過ぎないと思う。