人間社会の3つの指標

人間社会が健康的であるかどうかを評価する上で、3つの指標があると思う。
ひとつは豊かであることだ。ひとつは民主的であることだ。そしてもう一つは知的であるということだ。
この3番目の知的であることをめぐって、最近さまざまな議論がある。
いうまでもなく、世界の最高指導者の地位に反知性の代表みたいな人が居座っているからだ。
しかもその人物が、この上なく民主的と言われるプロセスを経てそのポストを獲得した。
これは衆愚政治の悪しき典型だろうか。それとも民主主義の過渡的形態なのか。

社会の知的指標としてのリテラシー

社会が知的であるかどうかを判断するスケールとして、リテラシーという言葉がよく使われる。大変使い勝手の良い言葉であるが、よくわからない言葉でもある。

もともとは識字率の意味であり、文盲率の逆数になる。ぶっちゃけた話、非文盲率と言うだけのことだ。多分文盲というのが、差別的なので使わなくなったのだろう。

一種の和製英語としてのリテラシー

もともとは識字率の意味である「リテラシー」であるが、最近の日本では識字率とは別の意味で使われている。

ウィキペディアでは以下のようなリテラシーが列挙されている。

メディア・リテラシー(Media literacy)
コンピューター・リテラシー
情報リテラシー(Information literacy)
視覚リテラシー
ヘルス・リテラシー(Health literacy)
精神リテラシー
金融リテラシー
科学リテラシー
マルチメディア・リテラシー
統計リテラシー
人種リテラシー
文化リテラシー
環境リテラシー

そのほとんどは勢いで作った言葉だろうし、相手を煙に巻くのが目的というのもある。

一体に具体的な単語を雲をつかむような抽象名詞に訳すのは日本人の悪い癖である。(技術とか健康とか医療とか…)

識字率というのは、別名がアルファベチゼーションというくらいで、もともと文字が読める程度までの知識を指す。さほどのものではない。

ただだいじなのは、これが個人的評価ではなく、一つの地域・社会に対する相対評価だということである。

そういう意味では、環境リテラシーなどと抽象的にいうのではなく、「環境に関してイリテレートな社会」とか「リテレートされた社会」と言うような表現をすべきだろうと思う。

社会をリテレートすること

最初に戻るが、民主主義は知性と反しない。別のものである。

もうひとつ無知はなくさなければならない。知性は育てなければならない。無知は無策の結果であり、知性を育てる努力の放棄の結果である。

知性が育てば民主主義は、その分揺るぎないものになる。ただしいかなる場合も立憲主義の精神は死守すべきだ。

これらは当たり前のことである。しかし中には無知な人々をだいじにして、無知なままにとどめておこうとする人がいる。

ラテンアメリカでは親米の国ほど文盲率が高く、自決派の国ほど識字率が高い。ベネズエラも識字率が上がったので、米国は下げたいのであろう。