東西ベルリン 年表

1943年 

11月 テヘラン会談。米英はドイツ東部のオーデルナイセ線をポーランド国境とするスターリン提案を了承。

1945年

2月11日 ヤルタ会談。クリミア半島の保養地ヤルタで米英ソの3国会議。ソ連の対日参戦で合意。米英はこの見返りにポーランド問題に目をつぶる。
Yalta_summit_1945
連合国はドイツをフランスを加えた4か国で管理することとなる。ベルリンは人口に基づき3等分され、西側2/3を米英、東1/3をソ連が管轄することになるが、のちに西側の一部を仏の管理とする。
germany-senryo
a イギリス  b フランス  c アメリカ  d ソ連  e ポーランドに編入

4月16日 オーデル川に敷かれた東部戦線最終線は崩壊し、ベルリンが裸で残される。市街戦の経過は別年表とする。

5月9日零時 第2次世界大戦終了、停戦が発効。 ベルリンはソ連の全面占領状態に置かれる。
今のベルリンで辛いのは目ではない。鼻である。巨大な廃墟、かつての地下鉄の駅から流れてくる悪臭は、人間の死臭なのである。(アイザック・ドイチャー)
5月 ソ連軍、ベルリン市長にヴェルナーを任命。ベルリン市参事会と市行政組織を設立する。モスクワからウルブリヒトらが戻り、ドイツ共産党を再建。

6月 四国宣言が発表される。ドイツ全域と、ベルリンの分割管理が示される。

7月 ベルリンで共産党、社会民主党、キリ民同盟、自由民主党からなる反ファシズム民主諸党統一戦線を結成。これが各級行政を担当する。

7月 国外住民・シュレジエン住民への強制移住命令が発せられる。その多くがベルリンに向かう。

8月2日 ポツダム協定が成立。ドイツの4カ国分割占領が確定する。共同の管理機関としてベルリンに管理理事会が設置されることとなる。

8月17日 ベルリンが過飽和状態となったため、国外からの避難民のベルリンへの移入が禁止される。

8月30日 4カ国による分割占領に移行。ソヴィエト軍は駐留していた地域のうち、西側3か国の占領地域から撤退する。

11月 オーストリア、ハンガリーで相次いで国会選挙。オーストリアでは社民党が圧勝し、共産党は4議席にとどまる。ハンガリーでは社共合わせて議席の3分の1にとどまる。

1946年

3月31日 ベルリンの社会民主党、共産党との合同の是非を問う全党員投票。西側党員の82%が反対、半数を占めるソ連側居住の党員は投票を禁じられる。

4月21日 ソ連は「反対が全党員の半数に達しなかった」ことをもって合同が認められたとし、社会主義統一党を結成。西側の社民党はそのまま残る。

6月30日  ソ連の提案で、東西ドイツの境界線が確定。

10月20日 4か国占領地区合同で、“最初で最後”の大ベルリン市議会選挙が行われる。西側のみのSPD が49%を獲得。キリスト教民主同盟 (CDU)22% 、社会主義統一党 (SED)20% に対して勝利する。
ソ連兵の粗暴な振る舞い、厳格な賠償と接収、オーデルナイセ線をめぐるモロトフの強硬路線がベルリン市民の反感を買ったとされる。
10月29日 東西占領地域間の旅行は、30日間有効の地域間パスによってのみ可能となる。


1947年 

2月 トルーマン・ドクトリンが発表される。ソ連の封じ込め、西欧諸国へのテコ入れが図られる。冷戦が始まる。

3月 モスクワでフランスを交えた4カ国外相会議。ザール炭田の領有に失敗したフランスは徹底してドイツ統一阻止に回る。

6月 米国のマーシャル国務長官、ヨーロッパ経済の復興計画を提案。マーシャル・プランと呼ばれる。

6月 ミュンヘンでドイツ各州の首相会議。西側が統一問題の議論を拒否し対立。西側諸州のみの会議となる。

6月24日 社民党(戦前の共産党員)のエルンスト・ロイター、ベルリン市長に就任。このときはソ連から就任を拒否されたが、後に西ベルリン市長となる。

1948年

2月 西側3カ国にベネルクス3国を加え、ロンドン会議が開かれる。「西側3地域の経済的統合を進め、統合された西ドイツを西欧グループの一員に迎える」ことで合意。

3月20日 ドイツ管理4カ国理事会が決裂。ロンドン会議の合意に不満をいだいたソ連代表が退場する。
ドイツ統一を妨げ、西ドイツを反共の防波堤にしようと動いたのは西側である。このことは明白な事実として抑えておくべきである。
6月 米国、西ドイツに別立ての通貨制度を導入。ライヒスマルクの貨幣価値を消滅させる。ドルの信用を背景に新マルクによる流通が爆発的に拡大。退蔵物資が放出され出回る。ソ連も東ドイツで独自の通貨改革を実行。

6月24日 ソヴィエト軍、西ベルリンに入る道路と鉄道を封鎖。ベルリン封鎖が始まる。大ベルリン市庁は東西ベルリンの全市民に食糧配給カードを配布するも西側は使用を拒否。

当初、ドイツ西部から西ベルリンへ向かうアメリカの軍用列車や軍用車の通過を妨害。やがてエスカレートして西ベルリンへの送電も止められる。

6月25日 米政府は、大空輸作戦「空の架け橋」を決定。空輸が開始される。パイロットが窓からレーズンを撒いたことから、空輸作戦に使われる航空機は「レーズン爆撃機」と呼ばれるようになった。
berlin_大空輸
作戦遂行のためテンペルホーフ空港が拡張される。下の地図のテンペルホーファー・フェルトという広場が当時の空港。
テンペルホーフ
西ベルリンにおいても西ドイツ同様の通貨改革が施行される。これによりベルリンは二つの異なった通貨区域に分裂する。

12月5日 大ベルリン市議会の改選。ソ連はこれを認めず、東ベルリンの100名の自称議員で「市議会」を開催。F.エーベルトを市長に選出した。これに伴い警察機構も東西に分裂。

西ベルリンに独自の大学としてベルリン自由大学が創設される。

1949年

5月12日 ベルリン封鎖が解かれる。

5月24日   ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。基本法第23条では、大ベルリンを連邦州の1つとする。

9月30日  ベルリン大空輸終了

10月7日 ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。ドイツ全体を「不可分の共和国」 、首都はベルリンであると規定。

1950年

西ベルリンの基本法(ベルリン州憲法)が発効。国際管理都市となる。

東地区の旧王宮が東ドイツ政府により撤去される。

1951年


1952年ベルリンでのテレビ放送開始。
5月 26日  東西ドイツ国境、東ドイツと西ベルリンの国境が封鎖される。東西ベルリンの境界はなお通行可能な状態が続く。


1953年6月17日 東ドイツで労働ノルマの引き上げに反対する建設労働者60人のデモ。多くの市民がこれに加わる。ソ連軍とのあいだで衝突。武装した労働者との銃撃戦となる。戦車も出動し、少なくとも153人の死者を出す。

この年だけで30万人が西側に逃れたとされるが、都市伝説に属する数字。

11月14日  西側連合国とソ連がともに地域間パスの発行を中止。東西の往来の制限がなくなる。ただし東ドイツ市民は許可証が必要のまま。

1954年

1955年

1956年

1957年12月 11日 東ドイツからの許可なし出国が禁止される。違反者は3年以下の懲役

1958年

1959年
1959年9月8日のブランデンブルク門前
1959年9月8日のブランデンブルク門前
1960年

「ベルリンの壁」の時代
1961年

8月13日午前0時  西ベルリンの占領境界線が閉鎖、ベルリンの壁構築開始。東西ベルリンの完全な分断。
Berlin,_Mauerbau
西ベルリンで働く東ベルリン市民は5万3000人、東ベルリンで働く西ベルリン市民も1万2000人いた。東ドイツは経済や職員が流出する、いわゆる「足による投票」を恐れた。

戦後15年間で約300万人が流出。これは東ドイツの人口の4分の1にあたる。

鉄道の話は複雑で面白い。「寒い国から来たスパイ
にもよく登場する。これは別途掲載する。

8月14日  ブランデンブルク門が閉鎖される。

8月26日  西ベルリン居住者は地上を経由する国境通過が禁止になる。

渡ろうと試みたものは一説に6万人以上。多くは国境警備隊に捕まるか、射殺されるか、無人地帯にある運河などで溺死するか、壁から落下するかの運命をたどった。壁を越えることに成功したのは5000人ほどと言われる。(流石に都市伝説に属するだろうが…)

1962年

1963年6月26日 ケネディ大統領が西ベルリンで演説。「私はベルリ-ナー」と叫ぶ。実質的には西ベルリンの現状固定化による安定化を目指すもの。

12月17日  壁建設以来2年数ヶ月ぶりに、西ベルリン居住者の東ベルリン訪問が許可される。年末年始の17日間に120万人が東ベルリンを訪問。これは
西ベルリン市民の半数に当たる

ベルリン・フィルハーモニーがオープン。設計はH.  シャローン。

1964年

1965年

1966年

1967年6月2日 イラン皇帝の訪問に反対するデモ。参加した学生が私服警官に射殺される。

1968年

1969年アレクサンダー広場のテレビ塔が完成。

1970年


1971年9月3日 占領4か国協定が改定される。西ベルリンはドイツ連邦共和国を構成する領域ではないとされるいっぽう、東側への出入りが簡略化される。


1972年
ブラント首相の東方政策を受けて、東西ドイツ基本条約が成立。

1973年
東西ドイツが同時に国連に加入する。

1974年11月10日 ベルリン高等裁判所長官が極左テロリストに殺害される。

西ベルリンのテーゲル空港が開港


1975年
「ベルリンの壁」の最終形が完成。西ベルリンを取り囲む総延長155キロメートルの壁。高密度の鉄筋コンクリートが二重に立てられた。壁の間は数十メートルの無人地帯で、アラーム付きの金網や多くの監視塔が作られた。

1976年


1977年


1978年


1979年

1980年


1981年


1982年


1983年


1984年


1985年
ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任。ペレストロイカを推進。ソ連、東欧諸国で民主化を求める声が高まる。

1986年


1987年6月12日  レーガン大統領、ブランデンブルク門の前で「ゴルバチョフさん、この壁を取り除いて下さい」と訴える。

1988年


1989年
5月、ハンガリーがオーストリアとの国境線にあった鉄条網を撤去。

6月 ポーランドで自由選挙。非共産党の政権が誕生する。

8月19日 ハンガリーのショプロンで「汎ヨーロッパ・ピクニック」を名乗る集会が開催される。亡命を求める東ドイツ市民参加者1千人が、一斉にオーストリア国境を越える。

9月10日  ハンガリー政府、東ドイツ市民に対してオーストリア国境を開放。6万人がオーストリア経由で西ドイツへ亡命した。

9月 プラハの西ドイツ大使館周辺に詰め掛けた5500人が特別列車で西ドイツへ送られた。

10月 東ベルリンでドイツ民主共和国建国40周年記念式典。来賓のゴルバチョフは、東ドイツ政府の亡命者締め付け政策を認めないと語る。

10月 ゴルバチョフ発言を支持する「ゴルビー、助けて!」のデモが60万人を結集。

10月、ホーネッカーが失脚。エゴン・クレンツが書記長となる。ゴルバチョフは新政権への援助を拒否。

11月4日 東ベルリンで反政府デモの参加者が100万人に達する。

11月9日 ベルリンの壁が崩壊。

シャボウスキー政治報道局長が記者会見。「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる。その際、許可証は不要であり、この政令はただちに、遅滞なく実施される」と発言。

検問所の警備隊は、押し寄せていた市民が西ベルリンに通過することを認める。多くの東ベルリン市民がその夜の内に国境を超えた。旅行の自由は取り消されなかった。berlin_photo89
12月22日 ブランデンブルク門が再び開通する。

1990年

7月 東ベルリン市庁が西ベルリン政府の指揮下に入る。

10月3日 東西ドイツ及び東西ベルリンが統一される。

12月2日:東西ベルリン合同市議会議員選挙。

1991年 ベルリンは再統一されたドイツの首都となる。