前記記事のごとく、一応歴史的あと付けもした上で、ドイツ左翼党国際部との交流の感想を書いておこうと思う。
首から上はWASG、首からは下はPDS というのがとりあえずの感想
多分この交流は、今回の訪問団の最大の成果だったろうと思う。
20数名の訪問団の参加者が一斉に質問を始めたのには驚いた。おかげで私の質問の機会は奪われてしまったが、日本との問題意識の重なりが非常に印象的で、とくに国際部の若い担当者が非常にツボにはまった回答をしてくれたのには嬉しい意外感を抱いた。

1.ギジの功績
一言で言って、この党は完全に「離陸」を果たしたなと思う。少々の風では飛ばされないだけの底力を身に着けたように見える。
もう一つは、あまり個人に功績を集中するのはいけないとは思うが、要所要所でギジの力が大きかったのではないかと思う。
私はこれまでイタリアの共産主義再建運動とスペイン共産党・統一左翼の動きをあとづけてきたが、率直にうまくは行っていない。
イタリアは結局スターリン主義についてほとんど総括をしないまま過去の遺産で突っ走った。遺産を食い尽くしたとき党の運命も終わった。
スペインはこれに比べればはるかにまともな総括をしつつ、左翼の結集に努めた。しかしボルシェビズムを剔抉するところまでは行っていない。党を撹乱したサンチアゴ・カリリョの資質の問題もある。

2.なぜギジは方向転換ができたのだろうか
ドイツの党、というよりギジはそこまで見通していた。シュタージの傷跡が残る東ドイツではたしかにそこまでしなければならなかったのだろう。スペインなら多少の問題はフランコ独裁のせいにして済ましていられる。
シュタージの党、社会主義統一党は、とにかくまず「坊主マル懺悔」をしない限り生き延びることはできなかった。
それはシュタージ関係者にはできなかった。そこで手がきれいなギジにお鉢が回ったのだろう。
ギジは思い切った総括をした。みな心の底では不満でも従った。従わざるを得なかったのだろう。ここから再出発したことが左翼党の運命を決めたのだろうと思う。

3.PDSは旧東ドイツの弱者の受け皿となった
PDSは少なくとも旧東ドイツに居住する社会的弱者を結集できた。それは反スタ総括なしにもある程度はできたかもしれない。しかしそこから出発し、そこから離脱するためには、そういう弱者たちの心からの信頼を勝ち取らなくてはならない。そのためにもシュタージ政治への総括をゆるがせにはできない。
実践を通じて下までその考えを浸透させること、それこそがギジのもっとも力を尽くしたところだっただろうと思う。

4.西側に味方を作ること
ギジは一度手ひどい個人攻撃を受けたことがある。国会議員になってしばらくした頃、マイレージの私的流用疑惑で徹底して叩かれたのである。
国会議員として各地に視察や旅行をした際に、マイレージが貯まる、これで家族旅行をしたのがバレて、議員団長をやめたり党の要職を退いたりしたように覚えている。
同じ頃大蔵省の役人が公用タクシー代のキックバックを私的に使っていたのが問題になったのと似たような話で、「横領」かと言われるとかなりグレーの領域である。
とにかく、この問題を通じてPDSは徹底的に孤立していることがわかった。世の中を変えていくにはまず血路を開かなくてはならない、これがギジの至上命題となったであろう。

5.WASGへの接近
ちょうどこの頃社会民主党の左派が分党してWASGを作った。ギジはこれを千載一遇のチャンスととらえた。彼には党の刷新を図り党の消滅を防いだ功績があるから、思い切った手を打つだけのフリーハンドを確保していた。
PDSはWASGに擦り寄り、WASGの言う事なら何でも聞いた。ラ・フォンテーヌはこれを徹底的に利用して、自分の党の全国政党化を果たした。当選してしまえばいつでも別れるつもりだったかもしれない。
ただギジの方にも自信はあった。シュタージとの関係さえはっきりしてあれば、プロレタリア独裁や国有化問題がスッキリ整理してあれば、一度一緒にやるだけでPDSの市民権は確立する。そうなればPDSの組織票だのみのWASGは離れられなくだろうと考えた。

6.ベルリン市長選挙とギジのケツまくり
PDS+WASG=左翼党の路線は大成功し連邦議会選挙や州議会で大躍進した。
その時ベルリンで市長選挙があって、WASGのなかに「成功したのだからもうPDSとは縁を切ろう」という勢力が優勢になった。その結果分裂選挙が戦われ分離派は惨敗した。
2012年ころ、同じような理由から左翼党は深刻な後退を経験した。外見上はいわゆる四分五裂の状況が出現した。人の褌で相撲を取る連中が勝手なことを言い出して収拾がつかなくなった。
このとき突如ギジが吠えたのである。「俺達は10年間我慢してきた。WASGの言うことなら何でも聞いてきた。それをお前たちは悪しざまにPDSを罵りながら、利用しようというのだ。オレたちにはこういう権利がある。“利用するのなら尊重せよ”」
これで再任を図ったラ・フォンテーヌの首は吹っ飛んだ。ここから真面目な本当の統一がスタートするのである。

7.首から上はWASG、首からは下はPDSの組織が誕生
共同党首は続けられ、今も二重政党の雰囲気を残しているが、「決めたことは守れ」という政党としての組織原則を保持しつつ、社会民主主義への脱皮を図るという困難な作業は基本的に達成されたと思う。
ただかつての東ドイツの政党の持っていた組織の共同体的体質と、西ドイツの声高で知識人的な原理の間に乖離が生まれないかは気がかりである。
ひとつは時間が解決する問題であり、ひとつは次世代活動家づくりが成功するかどうかの問題であろう。その点で、青年組織の拡大はこの党に希望を抱かせる最大の要因となっている。

8.統一には世代を超える時間が必要だ
ベルリンに3日間いて、表面的には完全に再統一されたかのように見える。それはおそらく旧東ベルリン側の経済状況が急速に改善されているためだろう。
格差は依然としてあるが、活気はむしろ東側(郊外)にある感じがした。西側のザラザラ感に対して東側の空気のしっとり感が印象的であった。(もっとも、治安は東のほうが悪いと書いてあるが、貧しいから仕方ないかな)


グレゴール・ギジ(Gregor Florian Gysi, 1948年1月16日 - )
彼の家系(祖母)はユダヤ人の血を引いており、祖先の代から共産主義活動に熱心だった。曾祖母はロシア貴族の家系。
父クラウス・ギージはすごい人だ。1931年にドイツ共産党に入党し、ナチを逃れてフランスに滞在するが、戦争が本格化すると党の命令でベルリンに戻り抵抗を継続したそうだ。命令する方もするほうだが受ける方も受ける方だ。共産党にはこういう人がいるから、最後には離れられない。
第二次世界大戦後、クラウスは東ドイツで大使、文化大臣、教会問題省次官などを歴任した。
グレゴール自身は1971年から弁護士として働き始め、東ドイツの数少ない自由派弁護士として反体制派や西側への亡命希望者の弁護を担当(これは針小棒大・多少眉唾)
1988年、ベルリン弁護士協会及び東ドイツ弁護士協会の会長に就任した。

1989年、東欧革命のさなか、ベルリン・アレクサンダー広場における50万人デモでは群衆の前で演壇に立ち、選挙法改正や憲法裁判所設置を政府に要求した。
それが12月のSED臨時大会では突然議長に選出されてしまった。言ってみれば党幹部とシュタージはギジを隠れ簑にして逃げ出したということになる。
1990年3月の初の自由選挙で人民議会議員に当選。東西ドイツ再統一後はそのままドイツ連邦議会議員となる。
1997年、シュタージの “非公式協力者” 疑惑が浮上し党の役職を離れる。その後も2016年まで繰り返し疑惑報道が繰り返される。当時の東ドイツで “非公式協力者” でなかったものなどいない。
2002年7月に旅客機のマイレージサービスを私有したと批判され、全ての公務を辞職して弁護士業に復帰する。2004年には心臓と脳の大手術を受けた。嫁さんは逃げた。もうボロボロだ。泣ける話だ。
2005年、左翼党・PDSの候補として連邦議会選挙に出馬。不死鳥のごとく当選を果たす。
2012年、連邦憲法擁護庁の監視対象をはずれ、ギジらに関する書類はすべて破棄された。
2015年、ギジは後事を託して党代表を辞任する。この後共同代表制が復活。