「人間の顔をした社会主義」の意味

チェコ共産党の人と懇談をして、「いま、“人間の顔をした社会主義”をどうとらえ返すか」と質問もしたのだけど、ぶっちゃけた話、通訳さんがまったくだめで、話が通じなかったみたいだ。
チェコ人の通訳なんだけど、市内観光のときにわかったのだけど、そもそも日本語がよくわかっていない人で、勉強もあまりしていない。
この人がインでわからず、アウトでわからず、したがって相手が質問の意味をわからず、答えはちんぷんかんとなって、それをまた通訳が変な日本語でアウトしてくるから、ほぼ「電信ゲーム」状態。
帰ってからネットで調べようということで帰ってきた。

それはこれからの話しだが、とりあえず、「人間の顔をした社会主義」について考えてみたい。

私はそもそも「人間の顔をした社会主義」というのは否定形の表現なのだろうと思う。
変な話だが、1968年のはじめチェコ人の前にあった社会主義は人間の顔をしていなかった。だから人間の顔を取り戻そうという、いわばルネッサンス運動なのだろうと思う。

では「人間の顔をしていない社会主義」というのはどんな顔なのだろう。
私は、それは3つ考えられると思う。ひとつは非人間の顔、つまり無表情なロボットの顔だ。
ひとつは人の権利を侵害して利益を貪る獣の顔だ。
そしてもう一つはソ連やスターリンの意のままになって、国民を裏切る犬(イヌ)の顔だ。どれも人間の顔ではない。

資本主義というのは何よりも獣の顔をしている。弱肉強食を生活の論理としている以上当然のことだ。
社会主義はこの資本主義の論理に対する対抗倫理として生まれている。
なのにその帰結点がイヌの顔になりロボットの顔になるのはどうしてなのだろう。

私が考えるには、人間の顔が社会主義から失われたのは、運動が気高さと優しさを失ったからではないか。
つまりスターリン主義に代表されるこれまでの社会主義運動は、気高さと優しさを本質的に内包していなかったのではないかという問題意識に突き当たる。もちろん社会主義運動は、気高さと優しさで支えられてきた。しかし「ボリシェビキ型社会主義」はそれらの人間的特質をただ単に利用したに過ぎなかった。

今日、チェコにおいて人間の顔をした社会主義、気高さと優しさを基調とする社会主義は実現できないのだろうか。
少なくともチェコ共産党くらいはそういうことを主張しても良いのではないだろうか。
チャスラフスカの凛とした横顔を見るたびに、そんな気がするのである。

チャスラフスカは東京オリンピックで金メダル3個を獲得した。
tyasurahusuka

     チェコの名花チャスラフスカ死去 より 

彼女はプラハの春に賛同し「二千語宣言」に署名し、ワルシャワ条約軍の侵入に抗議した。
宣言への署名を撤回するようにもとめられても、それを拒否し続け、メキシコオリンピックでは抗議の意味から濃紺のレオタードで競技を行った。
チャスラフスカ

         ベラ・チャスラフスカ

より