帰りに成田に着いたら、空港で「ユーは何しに日本へ?」という番組の取材をやっていた。集合時間までの間、何気なしに眺めていたが、想像を超える悪戦苦闘ぶりで、スタッフの頑張りに敬服した。
それはどうでも良いのだが、「スターリンは何しにウィーンに?」というのはどうでも良くない。
先程はBBCの記事を紹介したが、「ヒトラーが同じ時代にウィーンにいた」というのは良いとして、スターリンがウィーンにいた理由ははっきりしない。
そのあたりを示唆した記事を見つけたので、そちらから紹介する。


第一次大戦前のウィーン
第一次世界大戦の前、ウィーンはボルシェビキにとって住みやすい都市であり、レオ・トロッツキのような人々の住み処となっていた。
1913年1月、ヨセフ・スターリンはレーニンの命令でウィーンにやって来た。彼はオーストリアの社会主義者と接触することになっていた。
不運なことに、スターリンはドイツ語を話せなかった。
彼はウィーンで "マルクス主義と民族問題"というパンフレットを書いた。これは後にペテルスブルクの新聞に掲載された。

トロヤノフスキーの家
スターリンは、ウィーンでは、シェーンブルン宮殿の近くのトロヤノフスキーというロシア人の家に住んでいた。トロヤノフスキーは元ツァーリ軍の砲兵士官。中央委員で理論誌の編集委員をつとめていた。裕福であったので自宅にヨシフを受け入れた。
レーニンの命により、ヨシフはウィーンに缶詰になり、オットー・バウアー、カール・レンナー、カール・カウツキーらの民族問題文献を脳みそに詰め込まれた。外国語が読めないヨシフのために、パニンが翻訳にあたった。
スターリンはそこで数週間過ごした後、ウィーンを去りクラコウへ戻った。
ロシア大革命が成功した後、トロヤノフスキーはロシアの駐米大使となった。トロヤノフスキーはメンシェビキの幹部だったが、ヨシフは一宿一飯の恩義を忘れなかったらしい。
長い間、スターリンはSchlobstrabe 30に住んではいなかったと考えられていた。それはウィーンでの滞在が違法であったことを示唆している。彼の "Meldezettel"(住民票)が発見されたのは1977年のことである。

記念プレートを据え付けたわけ
1949年、KPZRはヨシフの70歳の誕生日を祝って、住居の壁に記念プレートを据え付けた。
「オーストリアはロシアのモニュメントを破壊してはならない」という取り決めがあり、そのため1955年以降もそのプレートは生き残った。
これは別な文章だが
1956年のハンガリー動乱に際して、ナジ政府を支持するデモ隊が押しかけ、プレートを剥がそうとした。官憲がこれを阻止したため失敗したという。
だからウィーン第12区のSchlobstrabe 30番地には、いまも “20世紀における最も有名な犯罪者の一人”スターリンに敬意を表する唯一の記念プレートがあるのです。


これだけ書いてしまうと、もうBBCの記事はどうでも良くなるのだが、以下の条は紹介しておいたほうが良いと思う。(いささか勿体ぶった表現だが)

1913年1月、Stavros Papadopoulosという名のパスポートを携えた一人の男が、クラコウからの列車でウィーン北駅に降り立った。
その男は、薄汚れた服装で大きな農夫髭を生やし、質素な木製のスーツケースを下げていた。
「私は机のところに座っていた」と別の男が書いている。彼はクラコウから来た男と会うためにこの駅までやってきた。書いたのは数年後のことだ。
「ノックとともにドアが開けられた。そこには見知らぬ男がいて、こちらに入ってきた」
「彼は背が低く痩せていて、その灰色がかった茶色の顔は痘瘡の痕跡で覆われていた。見たところ、彼の瞳の中には親愛感のカケラもなかった」
こう書いたのは亡命中のロシア人インテリで、急進的な新聞「プラウダ」(真実)の編集人、レオン・トロツキーだった。
そして、そう書かれたのはPapadopoulosではなく、その本名をIosif Vissarionovich Dzhugashvili、仲間内の通称をコバ、そして後年はスターリンと呼ばれることになる男であった。

かなり胃もたれする表現だが、要するにスターリンはドイツ語も話せずに、トロツキーと会うためにウィーンに乗り込んだのだ。
その理由は先程の年表を見ればわかる。レーニンが純朴な田舎の青年を送り込むことで、トロツキーの“受け”を狙ったのだ。しかしトロツキーの印象を見ればわかるように、あまりこの策は成功したようには思えない。
むしろ、トロツキーの“上から目線”がスターリンにトラウマをもたらした可能性もあるだろう。

とりあえず、このくらいで止めておく。
「スターリンのウィーン」は旅の目的からすればきわめてトリビアルな話題である。鈴木頌という男がどういうふうに首を突っ込んでいくかの見本として読んでいただきたい。

2018年10月17日  若きスターリン 年譜