2019.7 増補。斉藤悦則 「プルードン」などより引用

1809年1月15日 ピエール・ジョゼフ・プルードン(Proudhon)、フランス東部のブザンソンに生まれる。マルクスより9歳年長である。父は醸造職人。

1826年 プルードン、コレージュ中退を余儀なくされる。家は貧しかったが17才まで学業を続けた。ブザンソン市内の印刷所に校正係として就職した。

同郷の社会主義者フーリエと出会い、「この奇妙な天才のとりこ」となる。このあいだにほぼ独学で知識を身につけたという。

1836年、27才にしてブザンソンで印刷所を開き「親方」となる。多能工化を労働者の人間的成長と重ねる視点は仕事を通じて獲得された。

印刷所経営破綻をきっかけに学問研究志向を強める。奨学金を得て、1838年11月から3年間パリで勉学に専念した。

1839年 『日曜礼拝論』を発表する。社会改革思想とされ発禁処分を受けた。

1840年6月 『所有とは何か』が出版される。「所有すること、それは盗奪することである」などの過激な表現が話題になる。(所有でなく財産と訳す場合もある)

ルソー的な一般意志による法律を「法律的虚構」と否定。特に「所有権」についてはマルサス、リカードウらを激しく非難。自らを「科学的社会主義」と名乗る。

資本家は「所有」することで「集合的な力」を搾取している。この体制に貧困の原因がある。これに対し自由で平等な協同は、唯一可能で真実の社会形態である。資本家による搾取の体制は全面的に廃棄しなければいけない。

1842年1月 第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴される。

1844年 プルードン、マルクスと数度にわたって会談。マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」と称賛する。

マルクス、プルードンに共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼するがプルードンは保留。
プルードンはマルクスの教条主義や権威主義的な傾向を危惧したとされる。他にも多くのドイツ人たちが、それぞれの思惑からプルードンとの結びつきをもとめた。ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論したという。

1846年 プルードン、『貧困の哲学―経済的諸矛盾の体系』を発表。相互主義のアイデアに立ち、金融的側面からの社会変革を求める。
Proudhon
  クールベの描いたプルードン
社会再編の形態として、コミュニタリアニズム (共同体優位主義) を提唱。貨幣や国家の放棄を呼びかける。
「哲学者」は、「高慢さをひっこめて」「社会こそが理性であること、そして自分の手を働かせることこそが哲学することなのだと、かれのほうが学ばなければならない。

1847年7月 マルクス、「哲学の貧困」を発表。ひたすらプルードンに悪罵を投げつける。プルードンは黙殺。

1848年 ヨーロパ全域で2月革命勃発

2月 二月革命。プルードンはテュイルリー宮殿の無血占領に参加。新聞『人民の代表』を発刊し社会的実践へと踏み出す。

「人民銀行」計画のアピールにつとめる。貨幣にかわる「交換券」を発行し、自由主義の競争社会を克服しようとはかる。

6月 プルードンが国民議会議員に選出される。「6月蜂起」後の反動議会のなかで孤軍奮闘する。プルードンの主張は反政府派を代表するようになり、サンディカリスムや無政府主義への道を開く。

1849年 プルードン、ルイ・ボナパルトを「反動の権化」と攻撃し、3年の禁固刑となる。

1851年 プルードン、獄中で『19世紀における革命の一般理念』などを執筆。

『革命の理念』においてアナーキズムの主張が全面展開される。経済的諸力を組織化し、それをもって経済的形態の社会秩序を目指すべきと主張。アソシエーションが意志に基づく約束であり排除すべきものとする。これにより政府は、非意識的な経済的組織の内に解消されることになる。

1853年 生活の資をえるため書いた『株式投資マニュアル』が予想外の売れ行きを示す。プルードンは労働者の自己統治能力を信頼し、中産階級への成長を期待したという。

1858年 『革命の正義と教会の正義』を発表。公序良俗壊乱をとがめられ再び禁固3年を宣告される。刑を逃れるためベルギーに亡命。

1863年 特赦にて帰国したプルードン、『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』(連合の原理)を執筆。

「社会の指導的な中枢部」を複数化することによって、社会主義と政治的自由の両立を試みる。

1865年1月19日 プルードン、パリ郊外で心臓病により死去。『所有の理論』が遺作となる。ここでは所有は個人の自由・自立・自己責任の根拠と見なされ、処女作『所有とは何か』への返答となる。

old proudhon
         高齢期のプルードン
1865 年 マルクス、友人に宛てた書簡でプルードンとの交流を回顧。プルードンはプチブルで、科学的な弁証法を理解できなかったと評価。

婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権を認めず犯罪と見做したことはプルードンの弱点と言われる。