1809年1月15日 ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon)が生まれる。父は醸造職人。貧困のため学校を中退、印刷所に校正係として勤める。
このあいだにほぼ独学で知識を身につけたという。

1839年 『日曜礼拝論』を発表する。社会改革思想とされ発禁処分を受けた。

1840年6月 『財産とは何か』が出版される。「財産、それは盗奪である」などの過激な表現が話題になる。(財産でなく所有と訳す場合もある)

資本家は「所有」することで「集合的な力」を搾取している。この体制に貧困の原因がある。これに対し自由で平等な協同は、唯一可能で真実の社会形態である。
資本家による搾取の体制は全面的に廃棄しなければいけない。

プルードンはルソー的な一般意志による法律を、「法律的虚構」とする。特に「所有権」については激しく非難。

1842年1月 第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴される。

1844年 マルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けるも保留。
マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」と称賛したが、プルードンはマルクスの教条主義や権威主義的な傾向を危惧したという(ウィキ)

1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。

このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論したという(ウィキ)

1846 プルードンの『貧困の哲学』が刊行される。
Proudhon
  クールベの描いたプルードン
社会再編の形態として、コミュニタリアニズム (共同体優位主義) を提唱。貨幣や国家の放棄を呼びかける。

「哲学者」は、「高慢さをひっこめて」「社会こそが理性であること、そして自分の手を働かせることこそが哲学することなのだと、かれのほうが学ばなければならない。

1847 カール・マルクス、『哲学の貧困』を発表。プルードンを徹底的に批判する。

1848年
2月 二月革命。プルードンはテュイルリー宮殿の無血占領に参加。

6月 プルードン、国民議会議員に選出される。『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊。

プルードンの主張は反政府派の代表的な理論となる。サンディカリスムや無政府主義への道を開く。

1849年 プルードン、人民銀行の創設を図る。貨幣にかわる「交換券」を発行し、自由主義の競争社会を克服しようとはかる。

1849年 プルードン、ルイ・ボナパルトを「反動の権化」と攻撃し、3年の禁固刑となる。

1851年 プルードン、獄中で『革命の一般理念』などを執筆。

『革命の理念』においてアナーキズムの主張が全面展開される。経済的諸力を組織化し、それをもって経済的形態の社会秩序を目指すべきと主張。アソシエーションが意志に基づく約束であり排除すべきものとする。これにより政府は、非意識的な経済的組織の内に解消されることになる。

1858年 プルードン、『革命の正義と教会の正義』を出版。再び禁固3年を宣告され、ブリュッセルに亡命する。

1863年 特赦にて帰国したプルードン、『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』(連合の原理)を執筆。

「社会の指導的な中枢部」を複数化することによって、社会主義と政治的自由の両立を試みる。

1865年1月19日 プルードン、パリ郊外で心臓病により死去。
old proudhon
         高齢期のプルードン
1865 年 マルクス、友人に宛てた書簡でプルードンとの交流を回顧。プルードンはプチブルで、科学的な弁証法を理解できなかったと評価。

婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権を認めず犯罪と見做したことはプルードンの弱点と言われる。