聽濤弘「200歳のマルクスなら、どう新しく共産主義を論じるか」という本を入手した。

サラサラと読んでいこうかと思ったが、なかなか面白そうなので、メモを取りながら読んでいくことにする。

「未来社会論を語ること」の重要性

非マルクス主義者は「資本主義の歴史的終焉」を唱えている。しかしマルクス主義者もソ連崩壊後は未来社会を描けなくなっている。

こういう状況の中で(分からないなりに)未来社会論を語ることは重要である。その際に「マルクスが生きていたらどう考えるだろう」という視点が大事だ。
それは20世紀に歪められた社会主義の議論を取っ払うことになる。

ということなので、「マルクスに帰れ」という呼びかけにも聞こえる。ことは個人個人のマルクス観と関わってくる。なかなかしんどい話だ。あまり恣意的にならないように気をつけながら進むことにしよう。

「相対主義」について
聽濤さんは、「究極の真理を一方だけが知っているということは弁証法的にはありえません」という主張を紹介し、「やはり相対主義では社会は変えられない」と結論する。
これは納得できない。
真理は諸個人の間で相対的であるだけでなく、むしろこちらの方が重要なのだが、時の流れの中で相対的なのである。
それを前提として99%以上の確実性と再現性を持てば真実であるとしてよいだろうと思う。真実というのは意味のある事実なので、さらに相対的である。
往々にして混乱するのは事実が知られていない、あるいは隠されている場合である。
もう一つ問題はウソと言い逃れだ。「それはあなたの意見に過ぎない」というのは詭弁だ。後はウソとデマと悪意だ。我々が見抜かなければならないのはそこなのではないか。
マルクスのモットーは「すべてのものは疑いうる」である。これが唯物論者の態度である。

へーゲル弁証法について
ヘーゲル弁証法は物事を「矛盾の統一」と捉え、そこで起こる相克によって新しいものが生まれると説く。絶対真理ではなく相対真理をまずつかみ、それを通して絶対的真理に近づいていこうという論理思考である。
うーむ、微妙に的を外している気がする。「ヘーゲルの」といえばそうかもしれないが、マルクスの弁証法はたんなる論理学ではなく実在のあり方を説明した体系なのではないか。
私はフィヒテ・シェリングの物自体をめぐる議論のなかに弁証法の真骨頂を見ている。
自然弁証法について、最も基本となる矛盾は存在と運動の矛盾である。両者はエネルギーの中に統一体となっている。そこにおいては時間の絶対性が前提とされている。2つの存在の二項対立みたいな話は、それ自体が形而上学である。
もう一つ、運動が存在となるためには熱力学の法則が要求される。これについては目下、必要だという以上のことはよくわからない。

アソシエーション論
「資本主義を克服したあとには、個人の自由な発展が万人の自由な発展に貼るような連合体(アソシエーション)が現れる」でOKというのは何も言っていないに等しい。
これについてはまったくの同感。
ただしアソシエーションというのはたんなる仲良しクラブではなくプルードン主義者への毒をふくんでいることに注意が必要だ。


マルクス未来社会論の原点
聽濤さんはかなりユニークな提案をしている。
共産主義が低い段階で私的所有の廃止を内容としているのに対し、社会主義はそれを成し遂げたあとの自生的な社会形態だと言う。それはマルクスが経哲手稿の中で主張している中身だという。
これは新たな発見なのだろうか。

経哲手稿はまことに難解な書物で、まず誰が言っているのかをはっきりさせていかないと、マルクスが批判していることをマルクスの主張のように受け止めかねない。
哲学に関する手稿
少なくとも三人の主張が並行して進んでいく。すなわちまずヘーゲルの主張、ついでそれに対するフォイエルバッハの批判、そして概ね肯定的にフォイエルバッハを受け止めつつ、ときにマルクスの自説が顔を覗かせる。
ところが話を進めていくうちに、どうもそうではなくなってくる。「あれっ、これってヘーゲルのほうがいいじゃん」みたいになってきて、フォイエルバッハより自分の意見のほうが前面に出てくる。
経済学に関する手稿
こちらは論理構造はそれほど難しくない。ミル評注で獲得した経済学の知識をヘーゲル的論理に基づいて整序しているだけだ。
基本的には青年ヘーゲル派の主張にとどまっていると見ておくべきだと思う。なにせ2月革命の直前だ。世の中不穏な空気に包まれている。時代の空気をいっぱいに吸って「造反有理」の精神で満ち溢れていたと考えるべきだ。
これにサンシモンやオーウェンの社会主義が乗っかっていると見てさほどのズレはなかろうと思う。

当面するライバル プルードン

なぜマルクスがジェームス・ミルを一生懸命勉強したか。それは社会主義者プルードンと論争するためだ。

論争と言ってもパリに出てきたばかりのマルクスにとっては、プルードンはライバルと言うより尊敬すべき先輩だったに違いない。

ただ目指すものの違いは間もなく明らかになった。マルクスは革命をやりたかった。プルードンはもう少し地に足のついた改革をしたかったし、政治権力の打倒は念頭になかった。

もちろんマルクスとて社会主義を否定するものではないが、その前にやることがある。
それが私的所有をめぐる対立として浮き彫りにされた。と言っても浮き彫りにしたのはマルクスで、プルードンからすれば難癖つけられているように思ったかもしれない。

正直言って、マルクスが聽濤さんの言うように主張しているのかどうかはわからない。いろいろな解説書を読んだがそのように読み解いている本を見たことがないので、なんともいいかねる。

ただ下世話にプルードンとの関係を推理すれば、「マルクスの共産主義と社会主義」は、上記のように使い分けられていたのではないかと推測される。

エンゲルスは共産党宣言の序文(1890)で、「1847年には、社会主義はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した」と言っている。

まぁ、ぶっちゃけた話、そういうことだ。(ぶっちゃけ過ぎだが…)

共産主義の3つの形態

これは左翼の諸潮流をマルクスなりに整理したものに過ぎない。しかも自派の説明は悲しいまでに思弁的で、端的に言えば無内容である。

次に来る社会のスケッチは否応なしに現世と対比して語られざるを得ない。ところが現世の把握はああまりに観念的で情緒的である。

この現世の把握、過去の時代からの変化を前提にした、「未来社会」の弁証法は、この後もかなり揺れている。というより揺れ続けている。

中でももっとも拙劣で形而上学的なのが「経済学批判序説」の時代区分である。だからスターリン学派に重用されたのであろう。

しかし彼の興味の中心は常に「私的所有の廃棄」にあった。マルクス主義者である以上、未来社会を語るにおいて、ここだけは外せないだろうと思う。

この辺については佐藤金三郎さんの「資本論研究序説」が非常に説得的である。

このあと聽濤さんの文章はプルードンとの関係に移っていく。これは私も以前書いていて、非常に気になるところである。しっかり勉強させてもらおうと思う。