ウィキペディアから「応仁の乱」年表を作成しようとしたが、説明が詳しすぎる。すこし簡単なものからはじめてあらすじを理解した上でウィキに戻ろうと考えている。

作業を始めて2時間のところで、一つヒントが湧いてきた。
この内戦は4筋の戦いがある。
第一に8代将軍足利義政の跡取りをめぐる戦いで、一方が弟の義視、もう一方が実子の義尚である。
第二に足利政権の幹部の勢力争いで、一方が伝統の細川氏、もう一方が新興の山名氏である。
第三に三管領の一つ畠山氏の後継者争いで、一方が養子の畠山政長、もう一方が実子の義就である。
第四は同じく管領の斯波氏の後継者争いで、一方が先代実子の斯波義寛、もう一方が養子の斯波義廉である

応仁の乱というのは一言で言えば複合戦争である。さまざまな流れが1点に集中して、轟音を轟かせなから駆けぬいていく時代である。
この4本筋のうち、どれにどのように比重をおいていくかということで、いかようにも料理される。しかし私達は諸英雄を生み出した応仁という時代を理解しなければならないのではないか。

今のところ私が思い描いているのは、細川・山名戦争主軸論である。戦闘の流れを見つめていると、畠山の闘いが非常にクローズアップされてくるようだが、歴史のトレンドということで言うと、鎌倉以来の古い武家社会に代わって、山名宗全が新しい武家社会のあり方を示しているように思える。
基本的には山名の赤入道は、孤立した闘いをしている。味方と言ってもみな味方に引き入れた連中ばかりだ。
足利政権、管領を頂点とする支配システムを敵に回してさんざん鼻面を引き回している。

どうせ年表を作るのなら、「応仁の乱」年表を作るより「山名宗全年表」を作ったほうがはるかに面白そうだ。

さらに調べていくと、応仁の乱が始まる半年前、1466年の終わり頃にさまざまな流れが一挙に一本化することに気づく。
それを強引にまとめたのは、実は山名宗全である。先ほどの4本筋は宗全のもとで一本化されている。それが5月の内戦開始へとなだれ込んでいくという流れになっている。
ところが、ここまで力を発揮した宗全が、内戦勃発後は後景に霞んでいく。これがよくわからない。
どうも一触即発のところまでは持っていっても、ガチンコまでやる気はなかったのではないかという気がしてくる。
ウィキの応仁の乱の項目にも、山名宗全の項目にもこの「空白の3ヶ月」はあまり触れられていない。もう少し調べるか、あまりに膨大な事実の山並みに少々怖気づいている。