第三の男とウィーン
1945年3月12日 連合軍による大規模な空爆が行われ、ウィーン国立歌劇場やシュテファンドーム、ブルグ劇場、美術史博物館も被災する。
3月末 赤軍が国境を越えオーストリアに進出。
4月1日 ソ連軍、ウィーン郊外に到達。5日からウィーン周辺で大規模な戦闘が始まる。
4月10日 ソ連軍、市内中心部を確保。ナチス時代の措置の無効を宣言。
4月13日 ドイツ軍による組織的な抵抗が終結。ウィーンがナチス・ドイツから“解放”される。
1945年4月21日 カール・レンナー元首相(社会民主党)がウィーンに入る。ソ連の後ろ盾のもとに、国民議会の議長として社会党・人民党・共産党による臨時政府の協議に入る。
4月27日、レンナーと三党の代表者の名義で、1938年のアンシュルスは無劫とし、第一共和国憲法に基づく共和国の再建を宣言する。レンナーを首班とする臨時政府が活動開始。
1945年5月4日 西側連合がウィーン入りする。
7月9日 連合国協定。アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4つの占領区域を握り軍政が行われることとなる。国政の全体は連合国オーストリア委員会が権限を掌握する。
アメリカはザルツブルクと上オーストリア、イギリスはシュタイアーマルク、ケルンテルン、東ティロル、フランスは北ティロルとフォアアールベルク、ソ連が下オーストリアとブルゲンラント、ミュール地区を占領
9月1日 ソ連占領地区により取り囲まれたウィーンは、ベルリン同様に米英仏ソによる四分割統治となる。ウィーンに米英仏軍が進駐を開始。
9月24日 レンナー議長のもと「諸州議会」が開かれる。本格的な政府の樹立について合意。
10月20日 連合国司令官、臨時政府の権限を承認。「制限的な主権を有する国家」となる。
10月24日 西側連合国、レンナーをオーストリア政府の代表者として正式に承認。
1945年11月25日 議会選挙。議会での投票の結果、国民党が僅差で社会党を抑えて第1党となる。共産党はソ連軍の略奪行為と法外な賠償要求が嫌われ惨敗。
12月20日 レンナーは全会一致で初代連邦大統領に選出される。レオポルト・フィグル政権が成立するが、実権はレンナーが掌握。
1946年7月に国有化法が制定される。これまでの水道・電気・鉄道に加え、銀行・大企業・炭坑が国有化される。
1947年1月 オーストリアは連合国と講和に向けて交渉をはじめる。ユーゴスラビアがケルンテン地方を要求する。
1948年2月 グレアム・グリーン、ウィーンに赴き、四分割統治下のウィーンを観察した上で脚本を執筆。
1949年 総選挙。反ナチ法で参政権を剥奪されていた国内右派が選挙に参加可能となる。
1949年9月 カンヌ映画祭でグランプリを獲得。アントン・カラスの演奏する主題曲は大ヒットとなる。
1950年 レンナー、現職のままウィーンで死去。
1955年
5月15日 連合国諸国とオーストリア国家条約を締結。
7月27日 オーストリアが主権国家として独立を回復する。社会党と国民党が比例配分主義をとる。共産党は国民の支持を得られず、
10月26日 永世中立国を宣言。
1989年 ベルリンの壁崩壊。多くの東欧からの難民が流入する。
年表づくりの過程で、「赤いウィーンに労音があった」という記事を目にしました。
大変面白い記事で、ぜひご一読をおすすめしたいと思います。
いくつかのポイントを紹介すると、
「赤いウィーン」は労働者向けの音楽普及活動に力を入れた。この活動のコーディネータとなったのはD.J.バッハという人で、シェーンベルクやウェーベルンとも親交があった。労働者向けのコンサートに取り組んだのはウィーン交響楽団だった。指揮者の一人としてウェーベルンも参加した。20年代のウィーンではマーラーが流行したが、こういうユダヤ的音楽はナチの力が強くなるにつれて廃れてしまった。
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