1918年 ハプスブルグ家が第一次世界大戦に負ける。共通の歴史的経験を有していないチェコとスロヴァキアが一つの国家として独立し,チェコスロヴァキアが誕生。チェコとスロヴァキアに差異が存在しないとする「チェコスロヴァキア主義」が採用される。

1938年 ナチスドイツがチェコスロヴァキアを占領。

1945年 チェコスロバキアの“解放”

4月 チェコスロバキア共和国再建 

5月 ソ連進駐軍の支配下におかれる。

1946年 選挙で共産党が勝利。共産党委員長のゴットワルトが首相に就任。

1948年

2月 「チェコ・クーデター」により、共産党が支配体制を確立。社会主義国家に変貌。

6月 ベネシュが大統領を辞任しゴットワルトが大統領となる。ソ連駐留軍は撤退。

1950年代 主要産業の国有化や農業の集団化など急速な社会主義建設が行われる。重工業に経済構造の重点が移り高い成長率をもたらす。同時に天然資源やエネルギーの確保のためソ連依存度が高まった。

1951年 大規模な共産党内の粛清。スラーンスキー書記長や外相のクレメンティスら14人が告発・逮捕される。独裁を目指すゴットワルト委員長の陰謀によるとされる。

1952年 スラーンスキー、アメリカ帝国主義に加担した「トロツキー主義者・チトー主義者・シオニスト」の罪で死刑となる。

1952年 スロバキアの党組織も「ブルジョワ民族主義」と批判され、公的生活から追放された。フサーク書記長は終身刑となる。
チェコスロバキアの共産党はチェコ共産党とスロバキア共産党の2つに分かれていた。一般にはスロバキア共産党は風下に置かれていた。
1953年

3月 スターリンが死亡。ゴットワルトがスターリンの葬儀から戻ったあと死亡。慢性アルコール症と言われる。スラーンスキーが呪いをかけたのかも知れない。
 
3月 ソ連の指示を受けたノボトニーが第一書記に就任。ゴットワルトに代わる党指導者となる。大統領にはザーポトツキーが就任。

1956年 フルシチョフのスターリン批判。ソ連をモデルとした社会主義建設を進めていた東欧諸国に大きな衝撃。しかしチェコでは無風状態が続く。

1957年 スターリン批判を受け、粛清裁判に関する名誉回復がもとめられる。バラーク委員会による粛清裁判の実態調査が開始される。

1957年 ザーポトツキー大統領が死去。ノボトニーが第一書記職のまま大統領も兼任。ノボトニーは引き続きソ連軍駐留を拒否。

1960年 7月 新憲法が成立。「チェコスロバキア社会主義共和国」に改称。
「わが国では資本主義から社会主義への移行に関するあらゆる主要な課題はすでに解決された。社会主義の道としての人民民主主義は十分にその真価を発揮し」ているとする。
1960年 新憲法によりスロヴァキア国民評議会は一地方機関に格下げされ,スロヴァキアの利益を代弁する機能が奪われた。

1961年 第3次5ヶ年計画が始まる。1年後に計画を中止。
① 中ソ対立の公然化によって,中国という輸出市場が失われた。② 西ドイツとの関係改善が東ドイツの反発により挫折。これにより経済が失速。

1962年 バラーク委員会の調査が不十分とされ、コルデル委員会による再調査が実施される。

1963年
4月 ゴルデル委員会の調査の結果、結果387人が名誉回復される。12月にはスロヴァキア共産党員に対する「ブルジョワ民族主義者」という罪名も無効とされる。

1963年 ドプチェクが、ノボトニー派のバツィーレクに代わりスロヴァキア共産党第一書記に就任した。背景として急速な工業化による経済システムの転換を進めていたスロヴァキアが、経済状態の悪化により重大な打撃を受けたことが挙げられる。

1963年 経済システムを検討する国家委員会が設置される。経済学者シクを中心に市場原理の導入や企業の自主性を認めることなどを柱とした経済改革案が検討された。

1965年 シクの経済改革案が党の承認を受ける。しかし幹部からは強い抵抗。

1967年

1月 経済改革案が実施される。ノボトニーは消極的な姿勢をとる。経済改革の推進者の間からは政治システムの改革を求める声が高まる。

2月 ルーマニアが西ドイツとの国交を樹立。チェコも西ドイツへの接近を試みる。東ドイツは警戒感を強める。

4月 チェコの保養地カルロヴィ・ヴァリで全欧州共産党会議が開催。チェコは西ドイツが東ドイツを承認するまで国交樹立を控えることが確認される。

6月 第4回チェコスロバキア作家同盟大会において、作家たちが公然と党批判を行う。とくにスロヴァキア文壇はノヴォトニー批判の拠点の一つとなった。

9月 チェコスロヴァキア共産党中央委員会幹部会,文化面での管制を強化。作家同盟は文化省の管轄下に入り,事前検閲が強化された。機関紙編集部も総入替えとなる。

10月 チェコスロバキア共産党中央委員会、権力集中をめぐって激しい議論となる。ドゥプチェク・スロバキア共産党書紀らはノヴォトニー第一書記の大統領兼任を公然と批判。

ドプチェクは「党内の民主主義を深めることが不可欠である」とし,指導部の自己批判,党と政府の権限の明確な区分,行動綱領の作成の3点を主張した(ドプチェク自身は改革派と言うより中間派に属していた)

10月31日 プラハで学生が学生寮の設備をめぐる抗議デモ。ノボトニーは官憲を投入し強制解散させる。

11月 ロシア革命記念式典に参列したノボトニー、ブレジネフに対してみずからへの支持の強化を訴え、プラハ訪問を要請する。

12月8日 ブレジネフが非公式にプラハを訪問。党幹部との個別会談を精力的にこなす。
ノヴォトニーの右腕で党内ナンバー2のヘンドリフは、「第一書記にふさわしい人物は」と問われ自分の名を挙げた。ブレジネフはこれを聞いて「ノヴォトニーを支えるのは不可能だ」と感じた。

12月9日 ブレジネフ、幹部会員と書記全員を招集した会議で、党内問題に不介入の意向を示す。そのうえで「議論の重要な争点は2つのポストの分離である」とした。

12月13日 ブレジネフが帰国。「あなたたちの問題だ」として、積極的なノヴォトニー支持を打ち出さなかった。
ノボトニーはソ連軍配備を拒否し、西ドイツ接近を図っていたため。ソ連の不興を買っていた。また、ブレジネフがフルシチョフを追放した64年政変について、「解任の経緯が不明瞭で民主的でない」と冷淡な対応をとったとされる。
12月19日 チェコスロバキア共産党中央委員会総会。ブレジネフのノボトニー不支持発言を受けて、ノヴォトニー批判一色となる。
中央委員会総会の結果、事実上、検閲が廃止された。ノヴォトニーと体制の中核を担っていた党幹部や閣僚に対する批判が高まった。
12月末 中央委員会総会はクリスマスのため一旦休戦。ノヴォトニーは、12月総会から1月総会までの期間に,軍部の力を借りて反対勢力の一掃計画を進めていた。計画は事前に察知され、失敗に終わったという。

1968年 プラハの春

1月3日 続開中央委員会総会において、ノボトニーが退陣。これに代わり、スロバキア共産党第一書記のドゥプチェクがチェコスロバキア共産党第一書記に就任した。ノボトニーは大統領職に留まる。
低迷した経済などの立て直しに向けた改革に乗り出す。市場経済の一部導入など社会主義の枠内で社会・政治制度の民主化を目指す。
1月5日 チェコスロヴァキア共産党中央委員会幹部会の決議が発表される。現在の複雑化した状況に対処するため、大統領と党第一書記のポストを分離し別々の2人に任せると述べる。またポストの分離は、国家および政治領域における民主化過程の一部とされた。

1月中旬 ブレジネフがポーランドと東ドイツを訪問。両国首脳は「反社会主義」的影響に懸念を示す。

2月 国防省の幹部で、ノヴォトニーの側近ヤン・シェイナ将軍が公金の不正流用疑惑を受け、アメリカに亡命する。その後、シェイナはノヴォトニーの権力維持のためクーデターを企てていたことが発覚した。

3月21日、ノヴォトニーは大統領職を辞任。第二次世界大戦中の英雄であったルドヴィーク・スヴォボダが大統領に選出された。ノヴォトニー体制を支えてきた党や政府幹部も相次いで辞任。

3月23日 ドレスデンで東欧5カ国会議。チェコがポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアと多国間会談。各国は反革命の兆候を指摘。

3月 ドプチェク、「人間の顔をした社会主義」を提唱。政治犯の釈放や外国旅行の解禁、企業の自主管理など。メディアへの事前の検閲が廃止され、共産党の過去の「粛清」などタブーだった内容も報じられるようになった。

3月 ポーランドで学生デモ。「ポーランドにもドゥプチェクを!」と叫ぶ。

4月 1月に続き党中央委員会総会が開かれる。『行動綱領』が採択された。
「新しい社会主義モデル」を提起し、党への権限の一元的集中の是正、企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革、言論や芸術活動の自由化をうたう。
4月 オルドジフ・チェルニークを首班とする新内閣が発足。52年に「ブルジョワ民族主義」者として終身刑を受けたフサークが復権し入閣する。

5月4日 ドゥプチェクらがソ連指導部と会談。ブレジネフは「ソ連は人間の顔をしていないのか」と不快感を示したと言う。

5月8日 チェコを除く東欧4カ国がモスクワ会談。チェコ国内での軍事演習を前倒しして実施すること、チェコの「健全勢力」を支援することで合意する。

5月末 6月予定のワルシャワ条約軍の合同軍事演習に向けたソ連軍がチェコ入りする。

5月末 党中央委員会総会が開催される。ソ連の圧力を受けて路線をソ連寄りに修正。
右派修正主義の危険性を強調し、国民戦線の枠外における政治組織を「反共活動」とみなす決議。さらに第14回党大会を前倒しして9月に開催することを決定。
6月18日 チェコスロバキア国内でワルシャワ条約機構軍の演習「シュマヴァ」が開始される。国内では軍事脅迫と受け止められる。

6月27日 作家同盟を中心に著名人を加えた「二千語宣言」が発表される。改革推進や共産党の権限抑制が謡われている。発起人は69人、賛同署名は7万に達する。
…最近、わが国の改革に外国勢力が介入してくるかもしれないという不安が生じている。われわれは武器をもってでも政府を擁護する。この社会主義体制を人間的なものにしようという改革は最後まで押し進めねばならない…
6月28日 ソ連の新聞「プラウダ」は、この宣言を「反革命への誘いだ」と批判する。

6月30日 合同軍事演習が終了。参加兵力は撤退せずそのまま残留する。

7月14日 ワルシャワで多国間会談。(チェコは欠席し、ルーマニア・ユーゴの参加する多国間会議を求めた)。ソ連を含む5カ国は「反革命勢力との戦いに対する全面支援」を記した共同書簡を採択。

7月29日 ソ連との国境の町チェルナで4日間にわたる両国会談。下記の項目で合意。
共産党の指導的役割の擁護、検閲の復活によるマスメディアのコントロール、非共産党系政治組織の解散、党内改革派の更迭。
8月9日 ブレジネフとドプチェクが二度にわたり電話会談。チェルナ合意の履行につき意見の相違が明らかになる。

8月15日 3日間にわたってソ連共産党政治局会議。チェコスロバキアへの軍事介入が最終決定される(17日)。

8月20日夜 ワルシャワ条約機構諸国が軍事介入を決行。「チェコの人民を、凶悪な反乱分子から守るため」に、ワルシャワ条約機構軍50万が国境を越え侵入。
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    素手で戦車を取り囲む市民・青年
8月21日朝 空挺部隊がプラハ城に降下し、ドブチェク党第一書記やチェルニク首相を拉致し、モスクワへ連行する。
ヴァーツラフ広場では戦車に対し、市民が放送局前にバリケードを築き抵抗。
ワルシャワ条約軍がチェコスロバキア全土を占拠。学生ヤン・パラフはこれに死をもって抗議。全国で100人余りの死者が出た。
8月21日 チェコスロバキア共産党幹部会、軍事介入を非難する声明を採択。党内保守派による多数派工作は失敗。

8月21日 国営放送は国歌を流し続ける。アマチュア無線などによって全世界に拡散される。

8月22日 ヴィソチャニ地区の工場で、第14回臨時党大会が開催された。軍事占領下に1,219名が集まる。大会は軍事介入を非難し、拘束されたドゥプチェクら党指導部への支持を表明する決議を採択する。

8月23日 スボボダ大統領ら代表団がソ連を訪問。事態収拾を目指す。東欧首脳は交渉そのものに反対し、軍事占領と革命労農政府の樹立を求める。

8月26日 「モスクワ議定書」が締結された。マスメディアの統制、改革派の更迭で合意。22日の臨時党大会を無効とする。ソ連側の譲歩内容は明らかにされず。

8月27日 ドゥプチェクたち指導部がモスクワから戻る。改革の継続を表明するが、実質的には改革はストップ。

9月26日 『プラウダ』に論文「主権と社会主義諸国の国際的責務」が掲載される。
「1国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、…全体の利益を守るために、一国の主権は乗越えられる」

11月13日 ポーランド統一労働者党大会でブレジネフが演説。プラウダ論文と同趣旨。その後ブレジネフ・ドクトリンと呼ばれるようになる。

1969年

1月16日、カレル大学の学生ヤン・パラフが軍事介入および改革の後退に抗議し、焼身自殺
ヤン・パラフ
      aquamarine_324さんのページより
3月 ストックホルムで開催していたアイスホッケー世界選手権でチェコスロバキア・チームがソ連チームに勝利。国民が街頭に繰り出し、自然発生デモとなる。

4月 ドゥプチェクは事件の責任を取る形で第一書記を辞職。ドゥプチェクに代わり、フサークが党第一書記に就任。ドゥプチェクは共産党に踏みとどまる。

69年 チェコスロバキア社会主義連邦共和国と改称。

1970年

1月 ドゥプチェクはトルコ大使へと就任。西側に亡命することを期待した人事だったとされる。その前に毒薬を飲まされたとも噂される。

6月 ドゥプチェクやチェルニーク、スムルコフスキーなどの改革派幹部は除名され、「プラハの春」は終焉。ドプチェクは本国に召還され党籍をはく奪される。

1970年 コスタ・ガブラス監督による「告白」が作られる。スラーンスキー事件を描いたもの。
L'aveu

77年 ハベルら、人権擁護を訴える「憲章77」を発表し、同名の組織を結成

1989年、旧チェコスロヴァキアにおいて民主化を求める学生のデモ。これが発端となり、共産党政権が崩壊。「ビロード革命」といわれる。

12月 モスクワでワルシャワ条約機構会議が開かれる。「プラハの春」に介入した5ヵ国はこれが誤りであったことを認めた。

1990年3月 チェコスロバキア連邦共和国に改称。連邦議会議長にドプチェクを指名。

1993年1月、市場経済の移行政策や連邦政府との権限配分などをめぐってチェコとスロヴァキアは対立し、連邦を解消。

1997年に北大西洋条約機構(NATO)加盟、

2002年 宝塚の星組公演で、「プラハの春」が演じられる。

2004年に欧州連合(EU)に加盟