記紀の世界を信じるしかないのだが、相対年代として前後関係が明らかないくつかの大乱がある。
この中には九州王朝のものも紛れ込まされているので注意が必要だが、誰と誰が戦ったのか、誰が勝利したのかは重要だろうと思う。
1.神武の征服
時期はかなり明確に特定できるだろうと思う。卑弥呼より2,3代下った時代の話だ。280年から320年辺りに絞り込まれるのではないだろうか。
神武は九州王朝の組織した東征隊の幹部の一人だ。これに対抗したのは旧出雲系の集団だ。
出自で言えば九州王朝は任那系であり、出雲は新羅系だ。両者とも南朝鮮に存在した高天原をルーツとする天孫文化の後継だ。
神武から8代は九州王朝が権力を握り、その目下の同盟者として出雲系が実権を獲得した。

2.四道将軍によるクーデター
これはかなり細かく書き込まれている。何らかの史実の反映として間違いないだろう。
この崇神朝は武力を持って政権についており、神武王朝を倒したことは間違いない。誰が? 
他にいなければ、それは出雲系ということになる。ただ神武以前に大和に先着していた出雲族ではなく、越前より南下した新羅系の可能性はある。
その後の仲哀の死までの期間が明らかに一つの王朝を指している。東方進出と、吉備・出雲の奪取はこの王朝が強い軍事的ポテンシャルを持っていたことを示している。
ただし景行天皇のくだりは九州王朝からの剽窃であろう。

3.九州王朝による大和支配
これもかなりはっきりしていて、九州を支配しようとした仲哀がだまし討にあった。
仲哀が新羅に行く征かないの話になっているので、九州王朝は高句麗との戦いの最中であろう。
九州に寝返った野見宿禰が仲哀の妾(神功)の子を王に仕立てて、なんば・河内を征服した。
出雲系は反撃したが及ばず、大津まで撤退したあと壊滅した。
河内王朝には在地の大伴・物部がついた。
問題はこの河内王朝をどこまで引っ張るかということで、相当の議論がある。

4.継体の出現と実在王朝への連絡
実在王朝の金石文的確証は飛鳥寺そのものである。
ここから無理のない範囲で尺取り虫風に足を伸ばしていくと、西暦550年位までは足を伸ばせるのではないかと思う。
ここにも記紀のレベルではっきりした武装闘争の経過が残されている。
継体ははっきりしない、長期に渡る王権獲得の戦いが記されているが、肝心なことは王になるための経過ではない。即位して間もなく死んでいることである。そしてその後3代にわたり薄命な天皇が続く。つまり530年から550年までの混乱が問題なのであって、雄略の失脚から530年までは歴史上の空白と考えるべきであろうかと思う。

3と4の間には深く広い溝がある。
ここを埋めるものは3つある。一つは百済本紀である。一つは新羅本紀である。そしてもう一つが記紀である。
ここでは筑紫の君が登場し、蘇我韓子が活躍する。ともに九州王朝の幹部として戦っている。蘇我韓子が直接大和蘇我の祖となったのかどうかは不明だが、蘇我氏の超越的権威の背景となっていることは間違いない。