古本屋で吉田舜さんという方の「古事記は銅鐸を記録していた」という本を見つけ買ってきた。
吉田さんはまったくの市井の研究者で、おそらく退職金の一部をはたいて出版したのではないかと思われる。
中身をパラパラ読み始めたが、30年近くも前の出版で、申し訳ないが少々古い。
一応私なリに整理する。繰り返しが多いので、読み飛ばしていただいても結構です。

1.「銅鐸人」の正体は誰か
A) 銅鐸の使用年代
おそらく紀元前200年前後までは遡る。北九州に始まり徐々に西漸していった。
紀元250から300年位にかなり急速に使用されなくなった。尾張~遠江が最後に使用開始され、最後に中止された地域である。
B) 銅鐸は信仰と関わる用具であった
銅鐸はただ放棄されるのではなく、壊され埋められた。それと同時に銅鐸に関する知識もきっぱりと廃棄させられた。
これは異民族・異文明・異信仰による弾圧と考えられる。
C) 銅鐸人は現在の大和人とは異なる人種
銅鐸人は少なくとも大和王朝につながる人々とは文化的、宗教的に異なる人種である。
彼らは大和人に征服され、服従を強いられ、その文化・信仰を奪われた。ただし殺されたというエビデンスはない。
ここまではガチガチの事実として確認できるだろう。
D) 銅鐸人は稲作を営む青銅器人だ
水田耕作を営んでいる点ではまさに弥生人である。縄文人とも共生し混血していた可能性はあるが、縄文人ではない。
さらに青銅器文明を享受していたことを考えると、彼らが長江文明の流れをくむ渡来人であった可能性は高い。
異なる文明だからこそ破壊されたのである。

2.銅鐸文化を滅ぼした人々
銅鐸の衰退を“ニューカマー”の進出と重ねるなら、彼らは紀元前後に北九州に進出し、さらに200年をかけて山陰地方に拠点を形成しし、紀元300年前後に近畿を、その後の100年で北陸、東海、山陰、山陽を手中におさめたと考えられる。
彼らは朝鮮半島北部からの文化や信仰(天孫信仰)を持ち込んだ。とりあえず天孫族と呼んでおく。
A) 二波にわたる征服
紀元前100年ころに北九州に上陸したのは朝鮮南海岸から来た天孫族で、彼らは北九州を平定した。
おそらく紀元50年から100年の間に東海岸から天孫族の別部隊(新羅)がやってきて出雲から鳥取あたりに上陸した。
B) 新羅→出雲の天孫族の動き
スサノオ系天孫族は出雲から東に勢力を広げ、越前まで勢力を伸ばす一方、山陽に入り河内・大和まで進んだ。
彼らは銅鐸人の国を滅ぼし、逆らうものを殺し、信仰を抑圧し、みずからの文化を押し付けた。
これが纏向王朝で紀元250年ころ、九州王朝における卑弥呼の時代である。
スサノオ系の東方進出と出雲の国譲りとの前後関係はわからない。したがって因果関係もわからない。

以上の点を前提にした議論でないと、どこかに無理が出てくるからその分強引になる。




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