これはふと考えたのだが、これまで道具の使用が人間を作ったのだと言われてきた。
さらに道具の社会的使用という側面まで含めたのが、エンゲルス「猿が人間になるについての労働の役割」だった。
ただ、この考えは2つの点で間違っていると考えられる。
一つは、猿はかなりの点で道具を使いこなしていると言えそうだということだ。おそらく前世紀後半におこなわれた広範なフィールドワークで、それは実証的に説明されるようになった。
いまでは哺乳類から霊長類が進化する過程で成し遂げられた機能ではないかと思われる。しかもそれは哺乳類→霊長類というだけではなく、爬虫類→鳥類という進化の中でも成し遂げられているようだ。
だから我々は哺乳類というレベルではなく、哺乳類→霊長類という巨大なブレイクスルーにもっと注目しなければならない。そしてとくに脳の形態に着目してステップアップを観察しなければならない。またそれだけの進歩をもたらした樹上生活の展開との関連を説明しなくてはならない。
もう一つは、道具の社会的使用というのは、説明すべき社会性の獲得を前提にする過ちを犯しているからだ。社会性の向上を可能にしたものが何なのかを説明しなければ、道具の社会的使用をもたらしたものを説明することはできない。

それでは霊長類からホモ・サピエンスへの進化をもたらしたのは何か。すでに半分答えているのだが、言葉である。おそらく直立することによって舌筋をふくむ顔面筋や顎関節、咽喉頭の動きに大きな自由度が与えられた。その結果非常に多様な音声が操れるようになった。
それは肉体的前提であるが、それを駆使できるようになるためには脳の働きが飛躍的に増強される必要があった。とくに記憶装置の容量拡大がもとめられた。
もう一つは視覚画像のシンボル化である。画像がシンボル化されれないと音声シンボルとの対応はできない。したがって音声機能の拡充と画像シンボル化、そして両者の各々にもとめられる記憶装置、これらが脳の巨大化をもとめた。

したがってこういう事ができる。哺乳類は道具を使うことによって霊長類へと進化した。霊長類は言葉を使うことによって人類へと進化した。
ただ霊長類が哺乳類のトップに立ったということは、動物界のトップに立ったということではないのかも知れない。むしろそれによって先行する鳥類(爬虫類のトップ)にようやく追いついたと見るべきかも知れない。

ともかく、にんげんは言葉を獲得することによって、道具を社会的に使用するようになり、動物界の頂点に間違いなく立った。そしてそれ以来生物学的にはまったく進化していない。
ハード的な機能としての脳の大きさも、発声装置も、記憶装置も10万年前とそっくり同じだ。

文字言語獲得の生物学的意味
前置きが長くなったが、ここからが本番だ。
ただそれにも拘らず、生物が一つの種から他の種に進化するのに匹敵するような巨大な変化が起きている。それが書き言葉の発明だ。これは文字通りエピジェネティックに起きている変化だ。
エピジェネティックというのは、明らかに脳のシステム上の変化を伴っているからだ。書き言葉の獲得は明らかにシステムの生成を伴っている。まったくの一代限りの学習成果とばかりは言えないのである。
不正確な言い方かもしれないが、たしかに書き言葉の獲得は後天的である。いまでも地球上の人類の半数近くは文盲である。しかし失い方は決まっている。誰でも頭頂葉の中心溝後方に書き言葉の中枢が形成されていて、そこが傷害されれば“読み書き”という視覚性言語の二大機能は失われるのである。
つまり視覚性言語の習得の仕掛けは決まっているのである。

興味深いのは、文盲の人が脳のその分野を何に使っているのか。彼らが文字を見るとき、その場所がどういうあり様を示しているのか、などである。もともとなにかに使われていたはずの脳だから、視覚性言語のために取り上げられてしまったとき、元の働きはどこが担っているのかというのも気になる。
聴覚性言語の場合は明らかに利き腕側の優位の右半球に依存するが、視覚性言語はどうなのだろう。

一番気になるのは、テレビやラジオ、漫画という非文字言語に人間が落ちていくときに、人間の知能が落ちていく危険はないのか、考える機能が衰えて情緒的になっていく危険はないのかということだ。
トランプとか安倍晋三とかを眺めていると何かしら、そんな考えに陥ってしまわないでもない。

竜頭蛇尾というか、本番のところで脳みそがへたってしまった。
これから、また機会があったら、考えてみたい。