を大幅増補した。
啄木の晩年の思想的展開に焦点を合わせた年表に絞った。
題名を変えたのは以下の理由である。

大逆事件はきわめて重要なファクターではあるが、事件そのものを正面から扱った年表ではない。あくまでも啄木の最後の数年間、きわめてまともに前向きに送った人生を跡づけるのが目的である。

1908年 明治41年 満22歳

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。


1909年 明治42年 満23歳

1月1日 『スバル』創刊号発行。啄木は発行名義人となる。

2月 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

6月16日 家族を上野駅に迎える。この日をもって放蕩の「ローマ字日記」時代は終わる。

10月 妻節子、盛岡の実家に帰る。金田一京助の尽力で帰宅。年末には父一禎も上京し一家5人となる。

1910年 明治43年 満24歳

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

4月 処女歌集『仕事の後』(歌数255首)を書き上げる。春陽堂を訪ね、出版依頼するも断られる。
5月31日 検事総長、宮下、新村らが企てた明科事件が大逆罪に該当すると判断。幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」を報道。啄木は事件に衝撃を受け、「予の思想に一大変革」をもたらす。啄木は校正係として事件の詳細を知りうる立場にいた。

6月 最後の小説「我等の一団と彼」を執筆。生前は未発表に終わる。小説家の夢は叶わず。

7月末 啄木、「林中の鳥」の匿名で評論「所謂今度の事」を執筆(未発表)。東京朝日新聞の編集主任に掲載を依頼するも叶わず。

8月9日 魚住折蘆、東京朝日新聞文芸欄に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、折蘆を批判する評論「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月15日 『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(翌年2月28日まで)

10月4日 長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生(3週後に死亡)。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。

12月10日 幸徳秋水等被告26名に関する事件の大審院第1回公判(非公開)が開かれる。

12月 啄木、過労から身体の不調を覚え、三日に一度の夜勤は年内でやめる決意をする。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年 明治44年 満25歳

1月3日 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修弁護士を訪問、詳細な経緯を聞く。幸徳秋水が獄中から送った陳述書を借用し書写。

1月10日 アメリカで秘密出版されたクロポトキン『青年に訴ふ』を入手する。

1月18日 幸徳秋水等の特別裁判の判決。被告26名中、24名死刑という判決に、啄木は衝撃を受ける。

1月24日 幸徳秋水等11名の死刑執行。

1月 啄木、陳述書をもとに「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」をまとめる。「幸徳は決して犯人ではない」との確信を得る

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。 

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。  

2月 結核性腹膜炎で東大病院に入院し手術。入院中にクロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を読む。

3月 啄木、術後経過不調のまま退院となる。

3月 大逆事件について木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

5月 「ヴ・ナロード: 獄中からの手紙」を執筆。大逆事件の真相を世に伝えんとする。

6月 「はてしなき議論の後」の9編を執筆。「家」(6月25日)、「飛行機」(6月27日)の2編を創作。


1912年 明治45年 満26歳

1月1日 日記に曰く、「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた」

4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約。死後、歌集『悲しき玩具』(歌集の命名は土岐哀果)として出版される。

4月13日 啄木、死去。

石川啄木 年譜に多くを負ったことを付記し謝す